ウィキョウとハッカ

 
 

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根本の部分

 

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庭で花開いた部分

今日は朝からゆっくりとして、庭仕事をしたり、ガーデニングの本を読んだり、ゆっくりすることができた。その中でウィキョウ(フェネル)とハッカ(ミント)という二つのハーブについて、謎が出てきたり、解決されたり、よく分からないまま放置されたり、色々とあったのでメモ。
 
ウィキョウ(フェネル)が最初に日本に導入されたのは平安時代で『和名抄』にも「呉の母(くれのおも)」という和名が与えられているとのこと。この植物がどうなっているかという姿を眺めたことがなくて、根から茎が出る部分と、1メートルくらいの高い背がある部分が、どうしてもうまくくっつかない。このフェネルという植物名を最初に知ったのはイタリアの歴史学者のギンズブルグの『ベナンダンティ』で、魔法使いたちがフェネルを使って空飛ぶほうきのようなものを作るという話。ちょうどその頃に、公園通りのパルコでそのようなフェネルを売っていて、深い印象を受けた。それからだいぶしてから、フェネルのハーブの種を買って、その袋の根本のあたりの写真と、ベナンダンティのほうきやパルコの園芸店のフェネルとだいぶ違っていた。
 
そこに平安時代からの「くれのおも」と「ウィキョウ」が入り込んでくると、よくわからない。サカタで220円でフェネルを売っていたので、買っておくことにする。草川先生のウィキョウの文章は、そこに短歌や俳句が入ってくることで、非常に美しい雰囲気になっている。
 
草川先生のハッカの文章もとても面白い。中国からかなり昔に導入された。野生しているものもあるが、メグサ、メハリグサ、メザメグサというように、目の病気に対する薬草でもあった。ハッカ栽培は19世紀初頭に岡山、中葉に広島と山形、1900年頃には北海道。そして、1910年から1940年くらいには日本におけるハッカ産業の黄金時代。昭和12年には作付け面積が2万ヘクタールを超え、世界総生産の約8割を生産した。この時期は駄菓子のほとんどもハッカの香りがしていたという。
 
しかし、1950年ごろから、日本人の手によるブラジルハッカの生産が急速に進展し、安価であり日本の最盛期を大幅に上回る生産量であった。20世紀の後半には、世界のハッカ市場は完全にブラジルの手に握られたという。