主観と客観とビッグデータと少数データ
神田橋條治. (2017). "主観・客観." 九州神経精神医学 63: 73-74.
私が出席できなかったセミナーで、九州大学の精神科医の黒木先生が配った論文を読ませていただいた。私が最近考えていることと重なる主題である。近年の精神医療で主観と客観の問題がどのように扱われるかという話である。私の観点から見ると、計量的なデータをどう考えるのか、そして面白い少数データをどう考えるのかという二つの視点があり、これらの洞察をどのように組み合させるのかということである。
神田橋先生は「主観・客観」というタイトルで、精神医学の現状の中に主観と客観の双方の衝突を見る。患者の主観はどのようなものか、治療者はそれをどのように客観の枠組みで議論できるのか。確かさ、正しさはどのように客観の世界を作り出すのか。そこで患者の主観はどのように排除されるのか。治療者はどのように科学的な枠組みに惹かれるのか。患者たちはどのように啓蒙的な視点を組み込んでいくのか。そして、このようにして少数派であり、同時で個人である拠点がなくなっていくという警鐘である。その通りであると思う。
一方で、面白い少数データが作り出される一定の構造という視点もある。私は、こちらの考え方に惹かれている。モダニズムの時代の面白い少数データを、絶対の否定ではなくて、ある一定の少数データや個性がある個人を作り出している一定の構造だからと考えている。このあたりを、どのように考えて何を読むのか、一生懸命探しているところです。
『スウェーデンのアール・ブリュット発掘』のお礼
月曜日には慶應日吉で国際ワークショップの開催。タイトルは<国際ワークショップ 精神医療の「過去」と「現在」を展示する-医学史博物館と美術ギャラリーの社会的役割をめぐって-> 歴史学者、アーキビスト、場合によっては医師という、よく一緒に仕事をしている人たちではなく、本物のアーチストやアートディレクターたちとお話しすることができた。また別の機会にも書くけれども、イングランドのベスレム博物館とベスレム・ギャラリーという二つの施設が非常に優れたお話をしてくれた。ただ、それと同じような素晴らしいお話を聞くことができたのが、アートディレクターの小林瑞恵さんの活動である。
日本では必ずしも認められてこなかった芸術は、日本の精神障碍者、精神疾患の患者がつくりあげた作品である。そのような日本の作品を外国で展示して非常に高く評価されて、それが日本でも評価されるようになるという、国際社会での評価が逆流入する方向を作り出したディレクターである。彼女が選んだ作品たちは大きなインパクトであり、多くの人々が、精神疾患の患者が作り出している世界のことを考える機会だった。
小林さまにいただいたのが、刊行されたばかりの著作『スウェーデンのアール・ブリュット発掘』です。30人の作家を一挙に掲載して、小林さんと他の優れた方たちが対談や論考を寄稿している素晴らしい書籍です。お値段も安めに設定されており、みなさまぜひどうぞお買い求めください!
飛行機と鳥の衝突を回避する巨大科学について
バードウォッチングをしていると、鳥が新幹線や飛行機と衝突する光景が時々目に入る。実際、新幹線や飛行機の便数が増えることは、飛行中の鳥のリスクが急激に増大することを意味することはほぼ間違いないだろう。そこをなんとなかするようになっているという記事。アメリカでは26年間に蓄積された150基のレーダーステーション、アルゴリズム、パターンの把握を利用して、鳥の群れの移動のパターンを作るという。5月初めに長距離移動する鳥は4億羽にのぼり、それらの空間的な移動のパターンを作るという。その鳥の移動がわかれば、それを避ける飛行機の移動が可能になる。壮大な研究の構想であると同時に、これは私が次に考えようとしている「流行性精神疾患」という難しい主題と関係ありそうな気がする。
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ガネーシャのお祭り!
エコノミストのエスプレッソより。今年の9月13日から、ヒンドゥー教の神であるガネーシャのお祭りがインドなどで行われるとのこと。象の頭と人の体を持ち、商業や学問の神様で、時々酔っぱらってしまう楽しさもあるとのこと。私はガネーシャの小さな像を持っていて、10年以上前に当時の Yahoo! ブログで知り合った方で、会社員で東南アジア系の骨董もする方からお買いしたものである。これまで買った骨董の中で跳び抜けて好きなものである。17世紀のタイかビルマではないかと仰ってくださった。
日本の仏教にもガネーシャが少し組み込まれて、象頭人体の妙なキャラクターを描いた日本画もあるとのこと。エコノミストの記事は、ガネーシャの像を10日ほど飾って残りは捨てるシステムだが、その時に素材や人造塗料などが環境を汚染するのは良くない。だから、粘土などの biodisposable な素材を使うように指導しているという。