ヒステリーと「臓躁」

石井厚「鎌田碩庵『婦人臓躁説』考」『精神医学』28(5); 1986, 583-588.
「ヒステリー」という病名が「臓躁」と訳されていた時期がある。「臓躁」は、中国医学では由緒正しい由来を持つ病名で、『金匱要略』に「婦人臓躁」として登場する病名であるから、これは単なる翻訳ではなく、漢方と西洋医学の間で病名を対応させた仕事である。その作業を日本で最初に行ったのが、鎌田碩庵なる京都の医師が書いた「婦人臓躁説」なる文章で、これは文政元年に出版された『洛医彙講』という論文集に収録された。西洋医学に対抗して、京都在住の医師たちが中国系の医学が優れていることを示すために書かれた論文を集めたものであるという。

この論文は、金匱要略に登場する「婦人臓躁」の症例を語り、これはオランダ医学の「子宮癇」と同じものであり、『金匱要略』に書かれている治療法で治ったということを記している。症例は24,5歳の婦人が奇病にかかったからその様子を見てくれといって医師を呼ぶところから始まっている。患者は「いま、病気が起こりそうだ」といって床に就き、咽頭から奇妙な声を発し、左手の指を木偶人形のように回転させ、その回転は腕や肩の回転となった、母親が蕎麦にいて、患者の「尺沢」「委中」などを強く圧迫すると止まった。そのうち回転や旋回運動は全身におよび、眼球、眉陵、鼻、耳なども動き、最後には仰向いて腰を揺すり、甚だ醜態をさらした。母親が「符水(神様にあげた水)を上げようか」と聞き、患者が「早くください」と言ったので、茶壺に冷水をなみなみといれ、芒草を一枚浮かべて飲ませると、大きく息をして、患者は起き上がることができた。医師は、これを診て、オランダの医師ゴルテルが書いた書物に現れた「子宮癇」の記述を思い出した。そして、これは『金匱要略』の「婦人臓躁」であることも思い出した。このことは、鎌田を大いに喜ばせた。これまで金匱要略の婦人臓躁は古来それを明らかにした文献がなく、近代にいたって古医学の研究が進んでも、いまだに明らかにされていない。自分はこの病気に出会い、またオランダ医学の記述にも一致することを知ったからである。患者に、病気が起きるときには悲しくないか、病気の起きるときにあくびをするかと『金匱要略』の記述に合っているか確かめると、患者はもちろん肯定する。そこで金匱要略に記された治療法を試したところ、すぐに完治したという。

これがおそらくヒステリーを臓躁と読み替えた起源だと思う。その後の過程は調べていないが、呉秀三の『精神病学集要』(1915-25)では「臓躁」と訳されている。同時期の精神医学の教科書では「ヒステリー」と訳されているものもあるし、幕末の蘭方の本では「ヒステリア」の音を漢字化されていた記憶があるから、「臓躁」という表記はもともと優勢なものではなかったのかもしれない。戦争神経症で、日本兵士が「ヒステリー」の症状を示して、本来はWar Hysteria の訳で「戦争ヒステリー」と言いたいときに、「ヒステリー」という語があまりに色々な意味がまとわりついて誤解を与えるという理由で「ヒステリー」の語が避けられ、それにかわって「臓躁」という語が使われた。これも知っておくべきことである。