「海軍の精神医療―黒丸正四郎先生に聞く」『精神医療』12(1982), 82-85.
日本の軍隊の精神医学について、これまでその未発達を指摘する歴史学者が多かった。皇軍の兵士に精神病や神経症はありえなかったとする指摘である。たしかにあたっている部分はある。特に、陸軍は中国や満州での長期戦のために精神医療の体制を作り上げていたが、海軍については不十分であったという指摘は、この論文を読んでもわかるようにあたっている部分がある。しかし、そこで軍が精神医療を作り上げたときには、明治以降に発展させてきた精神医療を結晶させる形になっており、やはり連続性の発展として捉えなければならない。
黒丸正四郎は後に神戸大学教授となった精神科医。京都帝国大学医学部で精神医学を学んだあと、海軍の軍医を志願する。日米開戦後はガダルカナルに行き、撤退とともに日本に帰る。昭和19年に呉の海軍病院に着任、そこではじめて精神科医の仕事をする。陸軍と違って海軍では精神病への関心が全くなかった。徴兵の陸軍とは違い、海軍は全員志願兵であったから、その中には頭がおかしいものなどいないと思われていた。海軍の上層部には精神病者のことを気に掛ける人は一人もいなかった。しかし、海軍病院にいくと、一般の病棟に精神病の患者がいた。動きがのろくて、怠けているたるんでいると上官にビンタされているのは、ほとんどがパーキンソン病であった。黒丸はこれは病気であると説明し、診断書を書いて兵役免除にした。当時内科でパーキンソンの診断ができる人は少なかった。てんかんも兵役免除になるので、その診断をよく書いた。精神科病棟をつくった。これは、東大の内村祐之と京大の三浦が建議したためであった。呉の外には横須賀と佐世保の海軍病院に精神科医が派遣された。この海軍の精神科医たちを集めて、国府台の諏訪敬三郎が講演をしてくれた。
呉の病院の入院者のほとんどは精神分裂病のカタトニーや興奮患者であった。海軍の兵のなかにも戦場神経症はもちろんいたのだろうが、おとなしいのでそんな患者が病院に送られてくることはなかった。医者は他に2,3名、看護婦はたくさんいたし、有能な婦長に病棟をまかせていた。興奮状態が多かったから男性の看護士もいれた。主たる仕事は、入院患者の治療と除隊のための診断書を書くことであった。終戦のときに、カタトニーと診断して除隊となった兵隊が缶詰と米袋をかかえてピョンピョンと跳ぶように家に帰るのが不思議であった。我々がだまされていたのか、除隊の決定で病気が劇的に改善したのかいまだに分からない。治療はブロバリンやズルフォナール、国府台で行われていたような錬成療法や作業療法は海軍では行っていない。ショック療法は一般的だったが、黒丸は「性に合わなくて」一切やらなかった。恩給関係の業務にはタッチしなかった。おそらく主計や事務方でやっていた。当時の海軍では医師の診断書は絶対的な効力を持っており、兵役免除につながるような診断書については厳密に記載していた。
昭和20年春の空襲で精神科病棟は全焼して廃止。一年ばかりの命であった。戦争末期には近隣の民間精神病院を接収して患者を収容していた。
黒丸は広島の原爆被害者の治療も行った。終戦直後のことで、悲惨を極める医療であり、「このことは誰に聞かれても人に言うつもりはありません」と述べている。