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大正期のメスメリズム小説

吉田絃二郎「狂人となるまで」『吉田絃二郎全集 第十巻 戯曲集』(東京:新潮社、1932), 415-451.

 

吉田絃二郎は大正期から昭和の戦後にかけて活躍した人気作家である。昭和2年(1927)に投票で選ばれた『日本新八景』の上高地についての文章だったか、『戦争と文学』に掲載されていた「清作の妻」という面白い小説だったか、どちらかを読んでちょっと調べた時に、大正14年(1925)に「狂人となるまで」という戯曲を書いていることを発見して、全集を借りて読んでみた。この時期の吉田絃二郎は、次々と新作と評論を発表し、新聞の文芸通信でその動向が伝えられる人気作家であったが、この作品も非常に面白く、読んでおいてよかった。「狂人になるまで」の上演については何も知らないから、できればあと少し調べよう。

 

主題は、二人の同い年の男の間に成立する以上心理学的な物語である。一方は金持ちの大地主の坊ちゃんとして生まれた「庸一郎」で、美少年で性格もよく男にも女にも好かれ、成人した今では湖を見下ろす立派な洋館に住んでいて、書斎にはピアノが置いてある。もう一方は、同じ村の出身で「山上」で、水呑百姓の息子で性格もねじくれ、嫉妬と欲望だけで駆動されている男である。ところが、幕が上がると、庸一郎は自らも刑務所に入ったあと、妻の蔦子は自分の赤ん坊を殺して刑務所に入っており、家族の母、姉と姉の夫が来ても、庸一郎との間にまともな話が成立しない状態である。その理由は何か。庸一郎は山上にある種の催眠術のような人格支配の状態におかれているからである。あるとき、これまで庸一郎を妬ましく思っていた山上は、庸一郎を短刀で脅すと、これが恐怖観念を呼び起こして庸一郎を思いのままに動かせることを知った。これは、山上と庸一郎が「メスメリズム」と呼ぶものであった。山上は、短刀で庸一郎を脅すことで、たびたび庸一郎の家が行っている銀行の金を結びださせ、そのために庸一郎は刑務所に入り、その間に妻の蔦子を誘惑して妊娠させ、子供を産ませて蔦子に殺させ、そして今は満州に行くからといって金を再びせびりにきている。これも短刀の脅しで成功させ、金を持ってきた庸一郎の妹をいい女だといっては、かつての蔦子のようにするというおぞましい欲望を語る。その間、庸一郎を脅しては嘲笑い、庸一郎が自殺のために持っていたピストルを、しっかりもって自分(山上)に向けてみろといっては侮蔑する。しかし、その途中で庸一郎が本当に発狂して、山上をピストルで撃ち殺すという話である。

 

話としてはものすごく出来が悪い作品で、不自然でおかしなところがたくさんあると思う。重要なのは、明治初期から中期に掛けて外国から移入され、メスメリズムや催眠術の名で呼ばれていた主題が、社会階級を挟んだ憎悪と重ねあわされていることである。[一柳廣孝『催眠術の日本近代』(東京:青弓社、2006)] 庸一郎と山上の間には,

当時の社会の体制の上においても、人格的な魅力においても、途方もない格差があるが、そのすべてを飛び越えて、庸一郎を山上に隷属させているのがメスメリズムであり、短刀を見せることが呼び起こす恐怖の観念である。もちろん話は山上が庸一郎に撃ち殺されて終わっている。しかし、それは、これまでも山上のメスメリズムによって人生を破壊されつづけ、これからも大金をせびられ、妹を凌辱同然にされることに対する恐怖心からによって庸一郎が破滅の極致に達した末での発狂の産物である。これはメスメリズムの敗北の物語というより、過剰な勝利の物語とみたほうがよい。