朝鮮移民による聴診器の拒否と近代の新しい音と身体の世界

 

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メリッサ・ディクソン先生とおっしゃる若手の研究者が、聴診器と、それに批判的なイギリスの文学についての記事を書かれていたので読んだ。私が患者Bに関して持っていたもう一つの謎のある部分がかなり解かれたので、メモしておく。

 

朝鮮移民の話。患者Aと患者Bの対比をしているが、こちらは患者Bの話。

患者Bは朝鮮の医師の三男で、結婚した後に、1928年に単身で東京に移住して工場の労働者となる。それから2年ほどして精神疾患となり、比較的不安定な状態で王子脳病院に入院したのが1930年。それから、さまざまなドラマがあり、医師、看護人、他の患者、もう一人の朝鮮移民の患者などとの人間関係も非常に悪いものになり、孤立した状態となる。それが7年ほど続いて、1940年に在院の状態で死亡する。死因は肺結核である。

彼が起こしたさまざまな問題の中で、看護日誌が描き出した政治的な問題は、それほど分かりにくいものではない。詳細は略するが、彼は日本の体制を批判する知識人の一人であり、その立場で日本と精神病院への収容を批判していると考えてよい。

より難しかったのは、病床日誌が1934年から35年に記録している診断拒否の問題である。ことに、大きな問題となったのは、聴診器と血圧計を拒否したケースである。次のような流れである。

1934年5月24日
私、診察逃れる工夫ないですか。手前は馬鹿な奴だ。他人の身上をムヂュンする[矛盾?]奴はだめだ。
1934年6月21日
診察甚だ迷惑そう「誠に困るよ。なるべくなら簡単に書いてもらいたい」
1934年10月31日・11月8日・12月4日
血圧を測定せんとするにあたり、突然機械をなぐりつける / 聴診器当てられることを気味悪がり、いやがる / 胸部診察は止めてもらいたい。そんな冷たいものを勝手に胸に当てるなんてなんと失礼なことだ
1935年4月27日
検者が聴診器を握らんとすると、私の身体ではどこにも故障がないからかかることはよしてもらいたいと断る
1935年5月10日・5月16日
とても困るんだ。それ私の日誌か。それじゃ簡単に書いてもらいたいんだ / こういうこと、私大変妨害するから止めてもらいたいと症歴を指示する

ここで大きな問題は二つ。診断の技術と日誌への記録である。後者は別におき、ここでは前者だけ見る。ここで記されているのは、患者と聴診器の対立である。診察のための技術である聴診器と血圧計が敵視されている。

患者が聴診器を敵視する事態は、ヨーロッパでも起きている。もともと聴診器は、患者の視点から見ると、自分が病気を語るのではなくて、身体の身体が聞こえないかたちで情報を発し、それを聴きだして解釈できるのは医者だけである。これが音が情報となり重要な意味を持つ新しい状況である。しかも、患者が死にいたる疾病が体内に存在することを明示する情報である。患者たちは、自分の身体から出ている音が確証する疾病で死亡するのである。

それと同じようなに、多くの技術と情報が、患者の身体を無防備にする状況を作り出していた。パリの医師のピエール・ピオリー (Pierre Piorry, 1794-1879)は、「トキシン」という言語を作り出したことでも有名であるが、患者の身体に薄い金属板を接触させて打診を行った診断法を開発した人物である。彼が描く人体は、生きている患者の体内がばらばらにされるような姿を見せる。あるいは、ロンドンの医師のジョン・フォーブス (John Forbes, 1787-1861)は、ラエネクの訳者としても有名であるが、多くの医師たちがその影響を悪い方向に発展させ、医師たちが患者にメスメリズムを用いているありさまを批判している。患者の身体の内部は、さまざまな方向から透かし出され、操作されるような状況に陥っていた。

患者の側にたって、聴診器などの技術を批判した評論や文学作品も数多い。これについて書いたのがディクソン先生の記事の主力である。