明治の医学雑誌から

前田久美江編著『現代医療の原典を探る―百年前の雑誌「医談」から』(京都:思文閣、2004)

『医談』は明治26年から41年にかけて刊行されていた雑誌。合計で115号が刊行され、1986年に3巻本で復刻出版された。この復刻は古書で手に入るが高価であり、興味深い記事を選択して現代語訳した書物があったので喜んで読んだ。学問的な書物ではないけれども、大いに助かることは間違いない。

 

内容もいちいち興味深いものが多い。明治の医師たちの多くが、医学の体系と新しい技術と医療の仕組みの大転換を経験していたこと、その中で新しい問題に突き当たっては『医談』のような雑誌で議論しようとしていたこと、特に医師(と患者)の倫理的な態度に関する活発な議論があったことが分かる。この時期の医学は、明治政府が定めたドイツ医学に範をとる西洋医学化が着々と進展していたというイメージがあるが、医療の現場においては、事情ははるかに複雑である。洋行帰りの若いドクトルや、帝大での若い医者たちが、むしろ批判とからかいの対象にしている記事すらある。このあたりの現場の医者の倫理や行動の問題も研究されてしかるべきである。

 

また、歴史への興味も旺盛である。雑誌の編者が富士川游であったことも関係あるが、かつての先哲に学ぶという意識があり、江戸時代の医師たちが医師の心得を論じた文章も多く収録されている。医学部長だったときの三宅秀の文章が引かれているが、そこでは浅薄な西洋盲信と日本医学の伝統の破棄を恐れて、東大で「和漢古書医学講義開設」を建言している。

 

西洋医学を学んで得意になった医者を批判する物語で、一番面白いのは、ところ天を食べた後下痢をした患者を診てこれはコレラだと誤診した医者が、コレラ菌を寒天培地で培養したことを引いて、「コレラ菌は寒天が好きだから」というエピソードだろう。本当の話が、落とし噺の創作か分からないけど。

 

もう一つ、これは現代語訳だからはっきりとしたことではないが、日本の医学は明治期から「黒死病」という単語を、歴史的な事件の名称としてではなく、ペストの別名として用いていた。この本でも「香港で黒死病が流行している」や「ペストを黒死病となづけるのは、身体がそれほど黒くなるわけでもないから適切でない」などと、好き勝手なことを言っている。確かに、それならば日本語においては、「黒死病」は「ペスト」の正当な別名とみなす考え方も理論的には成り立つ。

 

しかし、そういうものだろうか。この明治時代の考えは、国際標準から見て間違っている。「黒死病」という日本語は、ほぼ間違いなく、ドイツ語の”Schwarzer Tod” を日本語に訳したものであり、この言葉は、ドイツの医者であるJustus Hecker が1832年の刊行物で14世紀のペストの流行を指したものである。Black Death や Shwarzer Tod は、Hirsch でも Creighton でもいいが、疫学史の古典的な著作では、歴史的な事件をさす固有名詞としてほぼ首尾一貫して使われている。いくら明治期の日本の医者がもともとの「黒死」に勝手に「病」をつけて(「黒死」という名辞は富士川游が用いている)、「黒死病」という疾病の名前らしいものを作り上げて、それをペストの別名として使っていたからといって、やはり「黒死病」は歴史的事件の名称として用いるべきだろう。

 

http://de.wikipedia.org/wiki/Schwarzer_Tod