犬と聖ロックとペストのパンデミック

今年は戌年で、南方熊楠『十二支考』の犬の章を読んでいたら、犬の聖人であり、同時に街や人をペストから守護する聖人である聖ロックの記述が出てきた。来年度の授業は疾病の歴史であること、パンデミックについての考察を一つ準備していることもあって、英語の Wikipedia やペストの図像学に関する論文も眺めてみた。

まずは聖ロックの生没年について。この人物は、黒死病やペストの時に活躍したとされているのに、その生没年がc.1296-1327 とされており、1346年から1453年の黒死病の前に死んでいるというのが医学史学者としては少し困っていた。しかし、新しい Wikipedia によると、現在の生没年は c.1348年から1376年となっている。これはこれで、黒死病の時には幼すぎるということで多少困るのだが、「黒死病」を限定的に取らなければ何の問題もない。


聖ロックについて。平凡社の『黄金伝説』 で聖ロックの項目を見つけることができなくて恥ずかしいが(なぜ?)、1483年のカクストン訳を読むことができたので問題なし。犬とペストに関する物語は以下の通りである。ロックはモンペリエの良家に生まれたが、良心と父親の死後にローマに向かい、途上の多くの街で悪疫が流行していることに遭遇した。そこで癒しと施しと祈りに身を捧げる。ところがピアチェンツァの街で自分もペストにかかってしまい、街を追放されて森に逃れて一人になって、病気と飢えで死にそうである。しかし、近くの貴族が買う猟犬が口にパンを咥えてやってきてロックに与え、飢えから救ってくれた。そこに犬の飼い主がやってくると、ロックは自分の病気が伝染すること contagious を知っていたので、自分の近くに来ると病気がうつるから来るなと言い、飼い主は一度はそれを聞いて家に帰るが、ロックは聖なる人だと気づいて翌日やってきて助けるという流れである。この物語の成立は1340年代ではないが、中世の人々も contagion の概念は使いこなしているのに少し驚く。

もう一つが聖ロックとパンデミックの話。黒死病から300年間のヨーロッパの死亡率はすさまじい。黒死病で半分とか三分の一くらいの人口が一気に死に絶えたのちに、局地的だがヨーロッパ全体にわたるペストが30年に一度くらいのペースでやってきては、それで人口の1割から3割くらいが死ぬという時期が続く。この状況では、絶望と諦念が似つかわしい気がするが、この時期はルネッサンス宗教改革、科学革命など、ヨーロッパの文化の歴史の中でもっともダイナックな時代である。そのあたりの事情を、聖ロックの姿を描いたペストの願掛けが無数に発行されたこととつなげて、ペストの攻撃に対して聖人が介入して自分たちを守ってくれるというポジティブな発想に基づいているという解釈を読んだ。

Marshall, Louise. "Manipulating the Sacred: Image and Plague in Renaissance Italy." Renaissance Quarterly 47, no. 3 (1994): 485-532.

おそらく、この解釈に重要な論点があると思う。私は疑義を持っている。もっと重要な問題もあるが、一つ簡単なところから。まず現代の医学的な尺度から言って、聖ロックの姿を描いた願掛けはペストには無関係である。迷信の産物であるといってよい。科学と迷信の二分法はよくないが、宗教と医学の潜在的・顕在的な対立はこの時期に存在した。フィレンツェの医学系の委員会は、防疫のために教会に集まることを禁じたので、16世紀にカトリック教会に破門されている。人々が迷信に熱狂したことをポジティヴな発想と高い評価をすることは私は違和感がある。