実験室の方法とペストの歴史
Little, Lester K., “Plague Historians in Lab Coats”, Past and Present (2011) 213 (1): 267-290.
ペストの病原体が発見されたのは1894年の香港で、アレクサンドル・イェルサンと北里柴三郎の二人の偉大な細菌学者が競いあって、一時は北里がリードしたが、結局最終的に正確に病原体を特定したのはイェルサンであり、彼の功績を称えて、ペストの病原体は Yersinia pestis と名付けられた。病原体の特定により、ある疾病・感染症がペストであるかどうかを決める、新しい究極の基準が作られた。それは、患者の症状などの臨床的な特徴や、流行の様相などの疫学的な特徴とは異なった、実験室での操作によってペストを判断する方法であった。
19世紀末の時点において、過去におけるペストの大流行とされていたものは、すでにいくつか存在した。もっとも有名なものは14世紀ヨーロッパの黒死病であり、アウグスト・ヒルシュの『地理的・歴史的病理学』によれば、6世紀にコンスタンチノープルを襲ってから数世紀続いた「ユスティニアヌのペスト」が最初の確かなペストの流行とされている。実験室の医学の方法をこれらの過去の流行に適用することは当然できなかったわけだが、北里も含めた細菌学者たちは、歴史的に記録された臨床的な症状に基づいて、過去の流行をペストであると断定していた。多くの患者のリンパ腺が大きく腫れたという記述が、その断定の記述になっていた。
しかし、過去の大流行が本当にペストなのか、言葉を変えると、Yersinia pestis がその流行を起こしたのかという問いは、リンパ腺の腫れだけで決着がつく問題ではなく、多くの学者たちが疑問を呈してきた。特に、イタリアのペスト流行について優れた業績をあげたデイヴィッド・ハーリヒー (David Herlihy)が、動物学者・昆虫学者によるネズミの問題に注目して、黒死病はペストではなかったと主張したこと、歴史人口学者のスーザン・スコットが流行の様相に注目してペスト以外の病気であると主張したことは、黒死病=ペストという前提を大きく揺るがせた。サミュエル・コーンは、2002年の著作において、黒死病とそれ以後のヨーロッパで「ペスト」と呼ばれていた病気は、ペストではないとはっきりと言い切った。私自身はペストの専門家ではないが、学部生向けの授業では、これらの「非ペスト説」を検討に値する説として慎重に紹介したこともあった。
この論争を収束させたのが、過去の人骨からペスト菌のDNAを採取して調べるという新しい「歴史学」の方法であった。1998年にマルセイユの学者たちが行った実験にはじまり、一連の研究は方法論を進化させながら研究の規模を拡大させてきた。基本的に黒死病はペストであったことがほぼ確定されたし、「ユスティニアヌスのペスト」が実際にペスト菌によるものであったことも示唆された。それだけでなく、中国においてペストの流行があったこと、それが西に移動してユスティニアヌスのペストや黒死病が引き起こされたことも示唆された。