Buddhism and Medicine 新刊のアンソロジー

amzn.to

 

Buddhism and Medicine: An Anthology of Premodern Sources が刊行された。仏教と医学に関する重要なテキストの英語訳と指導的な学者による説明と聞いている。評者も素晴らしいコレクションだと絶賛している。Kindle で16,000円以上とさすがに高価だけれども買っておいた。これまで何度も、この部分の解釈は、仏教と医学の関係が分からないと理解できないだろうなということがあったからである。私が最初に専攻した初期近代のヨーロッパ医学で、キリスト教古代ギリシアの関係を考えていたことがヒントになっている。もちろん、日本の仏教とインドや中国や東南アジアの仏教は違うとか、そういう問題はあるだろうけれども、どうせ間違えるなら、何かをして間違えたほうがいい。

中村元『往生要集を読む』を最近読んでいる。源信が描いた光景の凄惨さに毎晩戦慄している。地獄の炎、焼けただれた金属と、刃物で切り刻まれる人間の肉と筋と骨。すさまじいですよ。一読をお勧めします。

新しい「精神医療時代の芸術」の時代へ:坂本葵さんの評論

bit.ly

 

9月9日に松沢病院で開催した「精神医療と音楽の歴史」の講演部分を、作家の坂本葵さんに論じていただきました。高林陽展先生(立教大学)と私の、精神医療の歴史に関する講演でしたが、坂本さんの評論からは、学問的に、そして時代の方向を考え直すうえで、いくつものヒントを頂きました。ぜひお読みくださいませ。また、9月16日に同じく松沢病院で開催した松本直美先生と光平有希先生の講演と音楽演奏については、学者/作家である中西恭子さんにご評論をお願いしてあります。こちらもすぐにアップロードいたします。

展覧会「コンニチハ技術トシテノ美術」について

せんだいメディアテーク

f:id:akihitosuzuki:20170714125218j:plain

 

「コンニチハ技術トシテノ美術」は、せんだいメディアテークのギャラリーでの展示。11月3日に始まり、12月24日まで開催されます。青野文昭、飯山由貴、井上亜美、高嶺格、門馬美喜の5人のアーチストの作品が展示されます。ウェブサイトによると、「もとは同じ言葉でありながら、近代化の過程で意味が分かれた「技術」と「芸術」の関係について、震災後の東北に関心を寄せる(中略)5人の美術家がいま見つめるべき課題として問いかけます」とのこと。

医療における技術と芸術との関係、私もよく濫用しています。<20世紀の医学は科学的に疾病とその原理を理解し、その結果もあって治療力が高まって技術的に洗練したけれども、さらに芸術とも積極的にかかわるのが患者の利益となる>というような言い方は、きっと私も色々なところで不用意にしていると思います。先日のワークショップでも、「医学史のアウトリーチについて、なぜ<うまい>という表現を使ったのですか?」と質問されて、「医学という技術においてはそれは理解して正確に使えなければならないけれども、音楽という芸術においては<うまい>と表現するほうがいいのではないか」というような内容のことを言って、少なくとも自分では何か意味があることを言ったように思っていました。これは、少なくとも非常に浅い発想ですし、もしかしたら錯覚かもしれません。本や論文を読んで、作品を見て、その技術と芸術の関係を考えようと思っています。

ここで展示される飯山由貴さんのお仕事をしばらく見ており、精神疾患や精神医療を芸術作品にするということを理解しようとしていますので、この展示のために仙台に行ってきます。飯山さんにもお話を聞いて、作者自身の態度を記事に書こう、そしてウェブサイト「医学史と社会の対話」で書いている、ギャラリスト学芸員の視点と並べて考えてみようと思っています。そのサイトはこちらになります。

igakushitosyakai.com

 

 

 

『ボブという名の猫―幸せのハイタッチ』

bobthecat.jp

 

土曜日のワークショップでの話しと授業の準備。意外に早く済んだので、午後に、実佳と一緒に映画『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』を観に行く。ロンドンのヘロイン中毒のストリートシンガーと、彼のみじめな生活にやってきて立ち直りを助けるストリート・キャットのボブという猫の物語。私たちが20代から30代にかけて青春を過ごしたロンドンの物語。個人的な事情もあるのだろうけど、ロンドンは今でも世界の都だということもあって、とてもいい映画だった。原作の本があって、これは同じ境遇をたどった男の自伝風の作品であるとのこと。読んでみようかな。

小さな疑問―この上着は何ですか?

f:id:akihitosuzuki:20170927154546j:plain

 

黒田清輝が1909年に描いた寺尾寿(てらお ひさし 1853-1923) の肖像画。寺尾は福岡出身の天文学者・数学者。パリ大学に留学して天文学を学び、東大で天文学を講じて東京天文台の初代台長となった。日本の官僚や経済の名家と深い関係を築いた。黒田がフランスで学ぶ前に、フランス語の手ほどきをして、東大在職25年を祝したこの作品を描いて黒田はとても幸福だったとのこと。表情にも優しさと笑みがあって、素晴らしい作品だと思う。

問題は、この上着は何かということ。医師や科学者においては、この時期に白衣や実験衣などの仕事着を着た肖像画が現れ始める。ここで寺尾が来ているのは、礼服などではなく、仕事の時に羽織るもののように、私には見える。だとしたら、この上衣はなんだろうか。たぶん、天文学者の日常生活が分かっていないので、何をどう調べたらいいのかよくわからない。

大英博物館の会員誌と<記憶の有罪判決>

博物館や美術館の会員になるのが好きだから、大英博物館の会員にはもちろんなっている。特別展に無料で入れるのがメリットだろうけれども、楽しみなのは年に4回刊行される季刊誌である。今回はもちろんスキタイ展の読みごたえがある記事がある。他にもいい記事がたくさんある。こういう記事の感覚を呼吸しておくことが、学者のためだけの学問ではなく、社会に根付いた学問で、必要な時には有効なアウトリーチができる学問のセンスを養うのに役に立つのだろう。これは、少しいやらしい話だけれども、おそらく意味があることだと思う。
 
季刊誌の最後には、学芸員選択の一点という、これも面白い記事があって、今回はローマ帝国の時代の石碑の断片の話。要約された部分が多い文章が、過去の人々が日常的に行っていたことを本当に伝えてくれる部分であるとか、歴史学者としてはそうそうその通りと嬉しくなることがたくさん書かれている。それから、古代ローマの damnatio memoriae <記憶の有罪判決>が現れている銘文であるとのこと。記憶の有罪判決が出ると、彼や彼女(?)に関する絵画や記録や銘文などから、その肖像や名前が消去されるもの。大英博物館の取り上げられた銘文からも、人物の名前が消されている。その対象になった人物が、多少の時間差をともなって二人いて、地方長官とローマ皇帝自身であるとのこと。皇帝が damnatio memoriae にあったというのもすさまじい話であるが、周囲から徹底的に嫌われ憎まれていた皇帝で、死んだとたんに、記憶の有罪判決となったとのこと。
 
Wikipedia の damnatio memoriae が面白い。1940年にスターリンの隣にいた人物が消された例なども掲載されている。
 

ケアの神話

昨日書いたクリステヴァのマテリアルから、まず神話を見つけて、それに関するメモを書いてみた。ハイデガークリステヴァも挟み込んだヴァージョンも書いておこう。

******* 

ケアという言葉をよく耳にします。日本語では看護や介護といったような、もともとは「守る」「かばう」「保護する」という意味を持つ「護」という漢字を持つ言葉があたります。このケアについては、一つの興味深い神話があります。英語のケアの語源である「クラ」というラテン語の名前を持つ女神が主人公である神話です。それをめぐって20世紀の哲学者であるハイデガーが『存在と時間』でコメントをし、さらにジュリア・クリステヴァという思想家が2012年に英語に訳されて刊行された Hatred and Forgiveness でもコメントしています。ケアをめぐって神話があること、それに哲学者や思想家がコメントしていること、いずれもケアするという行為が、人間と世界の構造にかかわる深い意味を持っていることをあらわしています。
 
まず、神話ですが、これはガイウス・ユリウス・ヒギヌスという1世紀のスペインで活躍したラテン語の著作家による『寓話』 Fabulae という神話集に入っています。私たちが知るヒギヌスの写本は不完全なものであり、神話の断片を集めたものであるとのこと。ただし、このケアについての神話、断片220番は、かなり完成した形であるように見うけられます。だいたい、以下のような内容です。
 
クラがある川を渡ると、そこに粘土の泥があったので、それを取り上げて考えながら人間の形を作った。彼女が作り終えるとユピテルが来たので、クラは粘土の塊に生命を与えるように願い、ユピテルはそれに応じて命を与えた。クラはそれに自分の名前を与えたかったが、ユピテルは魂と生命を与えたのは自分だから自分の名前が与えられるべきだといる。二人が言い争っていると、そこに地の女神テルスが起ち上って、その人間の素材である粘土は自分のものだから、自分の名前が与えられるべきであるという。三人は議論を続け、最後にはサトゥルヌスに仲裁してもらった。それによれば、ユピテルは命を与えたのだから人間の死後にその霊魂を取り、テルスは身体の素材を与えたのだから、人間の死後にその体を取るように定められた。そしてクラは最初に人間を作り上げたのだから、生きている間は人間をケアするように。そして、その名前については、humus (土) から作られたのだから homo    (人)とすることとなった。 
 
 
[Fable 220] CCXX. CURA
When Cura was crossing a certain river, she saw some clayey mud. She took it up thoughtfully and began to fashion a man. While she was pondering on what she had done, Jove came up; Cura asked him to give the image life, and Jove readily grant this. When Cura wanted to give it her name, Jove forbade, and said that his name should be given it. But while they were disputing about the name, Tellus arose and said that it should have her name, since she had given her own body. They took Saturn for judge; he seems to have decided for them: Jove, since you gave him life [take his soul after death; since Tellus offered her body] let her receive his body; since Cura first fashioned him, let her posses him as long as he lives, but since there is controversy about his name, let him be called homo, since he seems to be made from humus.
 
 
日頃、ケアにたずさわっている方々は、色々な思いでこの神話を聞いたことと思います。一つ、非常に面白いのは人間とケアをする女神が現れる順序だと思います。皆さまの職場では、論理的には、ケアを要する人がまずいる、そしてその人の要求なり需要なり必要なりに対応してケアが行われるという形で考えることが多いと思います。ところが、この神話では、ケアを与える女神であるクラがまずいて、そのクラが人間を作り出して、色々な話し合いや分業や配置の話があって、そしてやっと人間が生存中はクラの世話になるということで成立する。最初にクラとさまざまな神様の構造の組み合わせができて、そうしてやっと人間ができるということになります。