Public Domain Review の楽しい記事(笑)

publicdomainreview.org

 

アメリカの人気サイトに Public Domain Review があり、楽しい記事をよく書いている。しばらく前に存在を知り、メールを配信してもらうサービスに入ったけれども、あまり読まなかった。エコノミストもそうだし小説や映画もそうだけれども、楽しいものを読まずに学問ばかりしていることが、学者の人生の魅力を落としているのだろうなと痛感している。でも、特集号の本を買ってから、人気が分かりはじめて、読むようになった。
 
そして今日の楽しい記事。まずは色付けの問題。これは実は初期近代から引き継がれている伝統である。出版自体は白黒で、そこに読み手がカラーで着色している証拠や方向性をたくさんまとめている。博物誌や化粧に関する素材もあって、医学や解剖学に関しても調べるとたくさんのマテリアルがあるのだろうなと思う。もう一つは、オハイオ州クリーヴランド美術館が、そのコレクションをすべて公開したとのこと。解剖学の歴史で、解剖学と人体描写の密接な関連の証拠としてよく使われる画像がそのまま使われていた。
 
・・・という読み方は、結局は、学者の余暇の楽しみ方なのだろうか。いや、結局というより、最初から最後まで学者の余暇というよりも、ほとんど本業ではないか。でも、それが楽しい時は、それでいいのだろうか(笑)

 

家庭と犯罪と宗教とハンセン病の看護

www.oxforddnb.com

 

今日のDNBは複雑な面白さを持っている。ある女性の人生である。家族の問題の中で義理の弟を殺したと告白し、結局オーストラリアに行って看護婦になってハンセン病の看護を行った女性である。

19世紀に殺人を犯したコンスタンス・ケント (1844-1944).  イングランドで生まれる。父親のサミュエル・コント (1801-1872)は工場監査人補佐。最初の妻は母親は合計で10人の子供をうみ、最後の子供を1845年で産んでから精神疾患になり、おそらく公立の精神病院に収容されて1852年に死亡した。父親は、家庭教師と家政婦としてやとっていた女性と再婚。この第二の妻とは3人の子供が生まれ、先妻の子供たちと一緒に住むようになった。
 
1860年に、当時まだ3歳だった息子が、何度も刺されて殺されていることが発見された。コンスタンスから見たら、義母が愛している子供であり、義母との関係は緊張していた。疑いはコンスタンスに向かうが、傷の様子などが16歳の少女にとって可能かどうかも大きな疑問となった。父親が、家のメイドと浮気していたのではないかという疑いもあり、その現場を弟に見られたのではという疑いもあり、探偵小説のようになってきた(笑)この段階ではコンスタンスは訴えられてもいない。しかし、1863年キリスト教の女性向けのリトリートにいる間に、優れた牧師に導かれて、自分が有罪であるという告白をした。この告白が、本当に真実かどうかも疑いがある。
 
その後、死刑から懲役刑になり、1885年に別名を与えられてオーストラリアに移住した。オーストラリアではまずメルボルンで看護婦学校で勉強して看護婦となる。40歳くらいの時期である。そこから、少女たちのための学校や、ハンセン病患者の収容施設で看護婦の仕事を行う。最終的には看護婦寮のようなものを設立して、そこで死亡した。
 
伝記があったので、少し古いけれども、買っておいた。母親の精神疾患も面白く、ハンセン病の看護婦も面白い。

 

フロイトのウィーン探索

www.freud-museum.at

 

ウィーンのフロイト博物館友の会からのメール。ガイドとフロイト学者が解説をするので、ウィーンの街を歩いて、フロイトが生きた世界を再構成してみませんかという、非常に魅力的な企画。そもそもウィーンには行ったことがないし、生き生きしたガイドがついていて深いガイドをしてくれる観光も、よく考えるとあまりしたことがない。でもご案内を読むと、お値段は一人30ユーロ。2時間のガイドで4,000円。ううううむ。ここで高額な対価を要求するところが、やはりウィーンのフロイトなんですね。

江戸時代の製薬技術の発展について

江戸時代の製薬技術の発展について。中国からの技術とオランダからの技術が導入され、技術をまねるのが上手な日本人は熱心にその技術を再生しているのですね。図版も使ってみるかもしれないです。

宗田一, 日本製薬技術史の研究, 薬事日報社, 1965.5
 
樟脳や軽粉の製造についても、樟脳自体は存在したが、当初は中国で技術的に完成され、薬剤となって輸入されていたが、16世紀後半から技術が導入されて日本が製造するようになった。これは、中国や琉球から導入されて、薩摩で定着し、土佐で発展したのだろうと考えられている。オランダからは、初期から技術の学習がはじまり、1671年に渡来のオランダ人に薬種32種類の製造法ならびに効能が問われている。これは貴重なものとみなされ、多くの写本が残っている。

森野旧薬園

高橋京子・森野壽子.   森野旧薬園と松山本草―薬草のタイムカプセル.  吹田.  大阪大学出版会.  2012.  
 
森野通貞(1690-1767) は森野旧薬園の開設者である。もとは藤助は農家であるが、葛の根から葛澱粉を製造して売っていた。その地域の植物についての直接の経験の多さ、京都、大阪、江戸などの取引などの経験も持っていた。この経験から、幕府との関連を持つようになる。1729年に徳川幕府から植村佐平次が大和を訪問して、各地の薬と農村の状況を調べたときに、植村に同伴して御薬草見習として4か月教えながら学んだ。これを契機として自宅に薬草園を開き、その後も数回、幕府から日本や中国・韓国から植物を与えられて、その地で生育することになった。その過程で名字帯刀も許された。晩年には旧薬園の植物や動物などを写生して、「松山本草」として10冊の画集となっている。本草学が画集と結びつく部分がここにもある。

江戸時代の番付と薬種商

林英夫, 青木美智男編, 番付で読む江戸時代, 柏書房, 2003.

 

19世紀には日本の各地において、薬種商が大きな力を持ち、同時に人々が自分たちが住む地の薬種商の商家の力や、そこが売る薬種の力を理解していた。その理解は、多少の漠然さを持っていた。中国医学の概念によって個別の薬を消費者として把握していたかどうか、それが番付で表現されたかという点は、疑わしい。番付の形成には、それぞれの薬の効果だけではなく、薬種商側の広告作用も働いていたかもしれないし、消費者側が持っている文化的な慣習も大きく働いている。しかし、林秀夫・青木美智男『番付で読む江戸時代』によると、大阪や金沢などで刊行された番付において、薬種商の影響が非常に強く出されている。大阪での長者番付においては、大阪の長者の約300人のうち、本両替が80店、木綿・糸・綿など衣料が27店、それについで、薬種業は11店の第3位である。(363-364)  また、金沢においては、富山の影響もあり、薬種商の影響はさらにとても強い。冒頭には反魂丹や赤玉などの著名な薬剤を含めて8点の薬剤の前があげられ、富裕な薬種商店として15点があげられている。これは、酒造や呉服などの現在でも金沢の名産品と並ぶ職種である。

パドヴァの医学校

www.bbc.com

BBCの旅行特集で、パドヴァの観光地案内です。数多くの教会や壁画だけでなく、ヴェサリウスの解剖学講堂、ハーヴィーの学位、オルト・ボタニコという名の医学植物園。ヴェサリウスの解剖図は、たぶん新しいものですが、実は見たことがない作品です。バターフィールドの言葉「科学革命がもし一つの街が象徴するとしたなら、それはパドヴァである」を改めて思い出します。ヴェネチアから電車で30分から1時間ほど。とても便利です。