死因について手当たり次第に集めた論文を何点か読む。これから数年間、近代日本の疾病構造の変化を論じる大きな仕事をする予定があるからである。そんな事情もあって、今日は、読んだ論文の要約というより、考えはじめていることを書いてみる。
同じ Medical History でも、「疾病史」と「医学史」は重点の置き方がかなり違う。「疾病」は、「病気」「病い」という言葉に較べて、生物学的なハードコアというニュアンスが強く、社会的に構成されたカテゴリーとか、患者の主観的な経験というニュアンスは弱い。だから、「疾病史」と言ったときには、歴史上記録されている病気が、現代の生物医学のカテゴリーで言うと何なのかを確定する作業が、まず必要になってくる。問題になるのは、大概「流行病」である。トゥキディデスが記録したアテナイの疫病は天然痘なのか、中世の黒死病は本当にペストなのか、江戸時代の風病はインフルエンザなのか、こういった問いは、「疾病史」にとってはきわめて正当な問いである。しかし、「医学史」の研究者は、この手の問いは「時代錯誤的」だと感じる傾向が強い。現代のカテゴリーを過去の医学にあてはめるのではなく、過去の医者や患者が、どのように病気や病いを理解したかを再構成するというのが、この30年余りの医学史の趨勢である。こういった重点の置き方の違いが、本質主義と社会構築主義の対立という、現代のイデオロギー上の対立に重ね合わせられるという事情も働いて、医学史の研究者の一部では、疾病史に対する敵意に近いものすらある。
疾病史が時代錯誤的なのだろうか、それとも医学史が狭隘なドグマに陥っているのだろうか? この問題には、この数年間のうちに一応の答えらしいものを出さなければならないだろう。今のところは、過去の医学を通じて得られたデータに頼って、現代のカテゴリーとしての疾病の歴史を書くときに(考古学的な化石人骨というジャンルの資料を除けば、疾病史のほとんどは、このタイプの問題を抱えている)、何に気をつけなければならないか、ということに気をつけている。
今日読んだ論文の中で、いくつか面白い指摘があった。まずは、生物学的な死因の変化として語られる「疾病構造転換」だが、ここには記録の仕方という要因も働いている、という指摘である。長期的な視点で見るとき、かつての記録(年代記のたぐい)に記されるのは感染症・流行病であり、そうでない疾病について情報を得られるようになったのは、比較的近年のことである。だから、過去の社会においては感染症が多いように見え、近年・現代の社会では、三大成人病が多いように見えるのは、記録者の視線がどこに向かっているか、とい要因も働いている、という指摘である。統計が取れるようになってからはもちろん、より長期的な視点に立っても、疾病構造転換の図式が実体として当たっていることはほぼ疑いないが、記録者の視線によって、私たちが得られる情報が変わっている、ということも考慮しなければならない。
もう一つは、近代的な統計が始まってからも、死因統計のリライアビリティには、さまざまな濃淡がある、ということである。19世紀のイングランドについての研究だが、医者が観察して死因を記入しているのは、大都市が多く、地方は少ない。1880年代のロンドンでは、医者による死亡証明は全死亡の99%に付されているが、ウェールズでは90%前後にしかならない。前者では医者が多く、人々は比較的頻繁に医者にかかったので、大都市の死因統計は地方部のそれより信頼できるのである。(同じようなメカニズムが、貧しい階層の死因についてもいえないだろうか?) 年齢階層で言うと、老齢者と乳児の問題が大きい。ここでは、「死因:老齢」とか「死因:生命力の欠如」とかいう、当時の医者たちが自嘲的に悪い冗談だと言っていたカテゴリーに分類されている死亡が多い。老齢者と乳児の死亡構造の変化を論ずる時には、記録のメカニズムによる歪みに対してより細心にならなければならない。
同じ Medical History でも、「疾病史」と「医学史」は重点の置き方がかなり違う。「疾病」は、「病気」「病い」という言葉に較べて、生物学的なハードコアというニュアンスが強く、社会的に構成されたカテゴリーとか、患者の主観的な経験というニュアンスは弱い。だから、「疾病史」と言ったときには、歴史上記録されている病気が、現代の生物医学のカテゴリーで言うと何なのかを確定する作業が、まず必要になってくる。問題になるのは、大概「流行病」である。トゥキディデスが記録したアテナイの疫病は天然痘なのか、中世の黒死病は本当にペストなのか、江戸時代の風病はインフルエンザなのか、こういった問いは、「疾病史」にとってはきわめて正当な問いである。しかし、「医学史」の研究者は、この手の問いは「時代錯誤的」だと感じる傾向が強い。現代のカテゴリーを過去の医学にあてはめるのではなく、過去の医者や患者が、どのように病気や病いを理解したかを再構成するというのが、この30年余りの医学史の趨勢である。こういった重点の置き方の違いが、本質主義と社会構築主義の対立という、現代のイデオロギー上の対立に重ね合わせられるという事情も働いて、医学史の研究者の一部では、疾病史に対する敵意に近いものすらある。
疾病史が時代錯誤的なのだろうか、それとも医学史が狭隘なドグマに陥っているのだろうか? この問題には、この数年間のうちに一応の答えらしいものを出さなければならないだろう。今のところは、過去の医学を通じて得られたデータに頼って、現代のカテゴリーとしての疾病の歴史を書くときに(考古学的な化石人骨というジャンルの資料を除けば、疾病史のほとんどは、このタイプの問題を抱えている)、何に気をつけなければならないか、ということに気をつけている。
今日読んだ論文の中で、いくつか面白い指摘があった。まずは、生物学的な死因の変化として語られる「疾病構造転換」だが、ここには記録の仕方という要因も働いている、という指摘である。長期的な視点で見るとき、かつての記録(年代記のたぐい)に記されるのは感染症・流行病であり、そうでない疾病について情報を得られるようになったのは、比較的近年のことである。だから、過去の社会においては感染症が多いように見え、近年・現代の社会では、三大成人病が多いように見えるのは、記録者の視線がどこに向かっているか、とい要因も働いている、という指摘である。統計が取れるようになってからはもちろん、より長期的な視点に立っても、疾病構造転換の図式が実体として当たっていることはほぼ疑いないが、記録者の視線によって、私たちが得られる情報が変わっている、ということも考慮しなければならない。
もう一つは、近代的な統計が始まってからも、死因統計のリライアビリティには、さまざまな濃淡がある、ということである。19世紀のイングランドについての研究だが、医者が観察して死因を記入しているのは、大都市が多く、地方は少ない。1880年代のロンドンでは、医者による死亡証明は全死亡の99%に付されているが、ウェールズでは90%前後にしかならない。前者では医者が多く、人々は比較的頻繁に医者にかかったので、大都市の死因統計は地方部のそれより信頼できるのである。(同じようなメカニズムが、貧しい階層の死因についてもいえないだろうか?) 年齢階層で言うと、老齢者と乳児の問題が大きい。ここでは、「死因:老齢」とか「死因:生命力の欠如」とかいう、当時の医者たちが自嘲的に悪い冗談だと言っていたカテゴリーに分類されている死亡が多い。老齢者と乳児の死亡構造の変化を論ずる時には、記録のメカニズムによる歪みに対してより細心にならなければならない。
文献は以下の通り Graham Mooney, “Did London Pass the ‘Sanitary Test’?: Seasonal Infant Mortality in London, 1870-1914”, Journal of Historical Geography, 20(1994), 158-174; Jacalyn Duffin, “Census versus Medical Daybooks: A Comparison of Two Sources on Mortality in Nineteenth-Century Ontario”, Continuity and Change, 12(1997), 199-219; George Alter and Ann Carmichael, “Studying Causes of Death in the Past”, Historical Methods, 29(1996), 44-48; Landry Yves and Renald Lessard, “Causes of Death in Seventeenth- and Eighteenth-Century Quebec as Recorded in the Parish Registers”, Historical Methods, 29(1996), 49-57; Naomi Williams, “The Reporting and Classification of Causes of Death in Mid-Nineteenth-Century England”, Historical Methods, 29(1996), 58-71.