20世紀の実験室の科学とフィールドの科学の接点に作られた<境界領域>についての本に目を通す。
今の大きな仕事である、日本の疾病と医療の歴史を研究するために、新しい方法論を勉強したり、場合によっては新しい視点を作りだしたりしなければならない状況が続いている。(<寄生の時空間構造>というのは、その一環である。)そんな関係で、イギリスの精神医療の社会史の研究をまとめていたときにはあまり必要でなかった、生物学的環境の社会史とか、空間的な問題の立て方についての話題作を色々読んでいる。このブログで取り上げている文献もbiological turn (生物学的転回)やspatial turn (空間論的転回)とでもいうべき方向の本が多い。この本を読んでいるのも私のspatial turnの一環である。
この本は、20世紀のフィールドの生物学と実験室の生物学という二つの異なった方法と価値観を持ち、そして何よりも大切なことに、異なった種類の場所で営まれる二つの科学的な営みの緊張と差異化と融合を描いている。実は、この本の歴史記述の中身はあまり読んでいない。主題よりも、方法論と視点を学ぶために、イントロとその近辺だけを読んだ。あと少し前に読んでいれば、このあいだセミナーでいらしていただいた瀬戸口さんに、詳しい中身を聞けたのに。
方法論的には非常に面白かった。二つの科学の間の境界領域という概念を、歴史地理学の成果とのアナロジーを使って説明しているイントロは圧巻で必読である。(しかし、方法論をアナロジーで説明するというのは、大御所でないと許されない贅沢だけど・・・) 発想は実に単純で、<境界>という概念を、線としてではなく、幅を持った<領域>として捉えようということである。二つのシステムが、徐々に交替していく、構造と実体を伴ったゾーンとして境界を捉えると、そこでの営みを問題化できる、というわけである。 こう聞いて、何だ単純なことじゃないかと思う人は、「線的」な捉え方がいかに医学史・疾病史で猛威を振るっているかを実感していない人である。私たちは検疫が行われたことをよく知っている。しかし、検疫所の仕組みについては殆ど知らないし、知ろうと思う人は少ない。私たちは細菌学の実験室と医学の臨床という二つの営みの対立と線引きについてはよく知っている。しかし、両者の接点がどこにあり、どのように使われていたかについては殆ど知らない。私たちは「他者化」の概念をよく使う。しかし、ある時間性と空間性を帯びて自己が他者になっていく仕掛けについてはよく知らない。目下進行中の色々な仕事について、目からうろこが落ちる思いがする指摘だった。
文献は Kohler, Robert, Landscapes and Labscapes: Exploring the Lab-Field Border in Biology (Chicago: The University of Chicago Press, 2002).