病人による介護論


 久しぶりに一次資料である。1844年に出版された病人介護論である。

 19世紀のイギリスの研究者なら知っている人物だが、ハリエット・マーティノー(Harriet Martineau, 1802-1876)という女性がいる。多彩な作品を残した著述家で、経済学の一般向け解説書を書いて有名になった。もともと病弱だった彼女が、体調を大きく崩して療養生活に入ったのが1839年、そして1844年に『病室の生活』を出版する。この書物がリプリントされて、書評だとか彼女の主治医との手紙を数通つけて出版された。こういうテキストが出版されるあたり、英語圏での医学史への需要が広い裾野を持っていることを物語っている。

 マーティノーを読んで一番はっとしたのは、これがいわゆる「闘病記」とは全く違ったジャンルの本であるということである。正岡子規がそうだし、福田真人さんが分析している結核文人たちもそうなのだが、病気にかかった文人が書いたものというと、私(たち)はまず「闘病記」のジャンルに属するテキストを想像してしまう。病人は私的領域に閉鎖されて内向的になって、自分の症状・身体・病室の世界だけが関心の中心になるんじゃないかという気がしてしまう。女性が書いたというと、特に自己と家庭の狭い濃密な世界を描いているのだろうという先入観はますます強くなる。だから、この本もマーティノー自身の病気と生活について細かに書いてあるのだろうと何となく思っていたら、全く違うジャンルの本だった。この書物は、病人が書いた、病人と家族のための介護論である。病人はどんな心理状態なのか、どんなふうに接されるどんな心持ちになるのか、などといったことが、露骨にマニュアル的ではないにせよ、病人自身と家族の心得がよくわかるような形で書かれている。一言でいうと、公的な領域のテキストである。

 二つの感想。まず<「介護論」を病人が書く>という事態は歴史的にみて面白い、ということである。別の言い方をすると、介護論が介護のプロによってかかれなくていいし、病人は闘病記以外のものを書いていいのだ。病人が自分の病気を言語化することで患者がエンパワーされると私たちは信じてきた。その結果、患者は個人的な体験が教えてくれることを書くべしという期待、逆に言うと病人は「自分の病気」以外のことについて書いてはいけないかのような制約が、文化的に形成されていないだろうか。患者に表現手段を与えたはずが、病人はマテリアルを提供し、介護のプロがそれを理論化するという分業のハイアラーキーを固定化していないだろうか。

 もう一つの感想は、これは突拍子もない思いつきだが、ヴィクトリア時代の「有名な病人」の多さである。オッペンハイムのShattered Nerves を見ると、半病人でなおかつ有名だったヴィクトリア時代人がいかに多いかわかる。マーティノーもそうだし、ナイティンゲールもそうだ。私たちの今の時代の日本で、病気、あるいは病弱系の有名人っていうと誰だろう?・・・私は一人も出てこないのだけれども。(このあたり、私は現代の有名人をあまり知らないので、ブログ読者の皆さんから教えていただきたいです。) 現代のほうが、ヴィクトリア時代よりも、病人の社会参加がかえって難しくなっているのだろうか? 病人は、「病人として」社会に参加するような道をつけられているのだろうか?

文献は Harriet Martineau, Life in the Sick Room, ed. By Maria H. Frawley (Toronto: Broadview Press, 2003)
画像は19世紀の病人の療養生活風景、ウェルカム図書館のコレクションより
なお、このブログでもよくお世話になっているNLMは、医学画像のテーマごとのデジタル展示をしている。これがとてもよく出来た展示で、面白い。
http://www.nlm.nih.gov/projects/bysubject.html