セネガルのペスト


 セネガルのペストについての研究書を読む。

 ペストには3回のパンデミーがあったことは良く知られている。一番広がりがあったのは3回目のパンデミーで、中国に発してインドや東南アジアやアフリカの広い範囲に被害が出た。日本もこの3回目のパンデミーに巻き込まれ、大阪を中心に1905年から09年にかけて連続して年100人以上の死者を出した流行があった。

 セネガルのペスト患者は、記録に残る限りでは1914年が最初である。同年の4月にダカールで最初の患者が確認されたのちに、同年夏をピークにして広範囲に広がった流行があり、年間で約4000人のペスト死者が公式に確認された。日本と大きく違うところは、この流行のあと、セネガルでは、土着のげっ歯類とおそらく移入されたケオピスノミ(ペストの媒介に最も重要なノミ)の間でペストが定着し、1940年代まで、農村部でコンスタントにペストの症例があって、都市部でも時折中規模の流行がある、という状態になったことである。最後の大きな流行は、ダカールで500人の死者が記録された1944年である。Endo-epidemic な状態が30年続いたことになる。

 この本の記述の中心は、セネガルの政治史の中に位置づけたときのペストの流行である。1914年というのはセネガルの政治史にとって重要な年で、ブレーズ・ディアニュがはじめてセネガルから黒人としてフランスの国民議会の議員に選出された。この政治的な激動が生み出した流動的な状況の中でペスト対策の議論がヒートアップしていた。他に面白かったのは、原住民(一部は強制移動させられた)とヨーロッパ人の住み分けの問題、本能的な感情に医学が「科学的」合理性を与えたという話し、それから、数日前に記した牛疫のように、ペストというのはヨーロッパ人(フランス人)にとっては医学的な問題だったが、原住民にとっては政治的な問題であったというところ。帝国主義にとって「科学」がいかに本質的な部分だったか、よくわかる話である。このあたりが、きっとこの本の読ませどころなのだろう。医学・公衆衛生対策を論じた部分と、「セネガルにおけるペストの生態学」と題された章は、単調で平凡な記述でちょっと期待が外れた。

文献は Echenberg, Myron, Black Death, White Medicine: Bubonic Plague and the Politics of Public Health in Colonial Senegal, 1914-1945 (Oxford: James Currey, 2002).