オスマン帝国のペスト

ドイツのワークショップで、ずっと知りたいと思っていた主題をまさにリサーチしている学者の報告を聞いて、とてもうれしかった。その主題というのは、オスマン帝国のペストである。

ペストは、後記中世から近世にかけてのヨーロッパの社会の柱の一つとなる事件である。1347年にシチリアに上陸して、それから5年間で全ヨーロッパを飲み込んだ、いわゆる「黒死病」にはじまって、1720年のマルセイユとその周辺で約10万人を殺した「マルセイユの大ペスト」にいたるまで、ヨーロッパは400年近くのあいだ、ペストの爪にがっちりと掴まれていた。これは、20年から30年に一回の割合で襲来して、街の人口の1/5 程度を斃して去っていく社会が400年続いたということである。この疫病の構造がヨーロッパ社会にさまざまな影響を与えたということは、活発な研究の対象になっている。

医学史の研究者たちが何も知らなかったのは、それではヨーロッパの外ではペストはどんな状況だったのだろうという問題である。黒死病黒海の港であるカッファから来たことから、それが東から来たことは誰でも漠然と知っているし、時々地中海沿岸でペストがあったことも、断片的な知識としては知っている。しかし、その流行の様子や対策については、英語などの言語で読める組織的な研究はいくつかの重要な洞察を示したペーパーを除けば、実質上存在しなかった。
14世紀から18世紀というのは、ヨーロッパとそれを取り巻く状況が大きく変動した、世界史のかなめにあたる時代において、人口と社会と文化に大きな影響を及ぼしたペストについて、ヨーロッパ以外のことを何も知らないという状況は、医学史研究が持っていた最大の空白であったと言ってもいい。

その空白を埋めた研究者がついに現れた。Nukhet Varlik という、トルコのイスタンブール大学とシカゴ大学で教育を受け、いまラトガーズで教えている学者である。彼女は、オスマン帝国のペストについての博士論文を書いて、現在、書物を完成させている。アマゾンで調べてみたら、博士論文がUMIで手に入ることを知った。(だいたい、アマゾンが博士論文を販売するなんて事実を知らなかった。)

15分程度の報告だったから、もちろんあまり詳細な話を聞くことはできなかったが、彼女の発見は、それが正しいとしたら、ずっと議論されるだろう重要なことばかりであった。その中でも最も重要なことを二つメモする。一つは、イスタンブールの役割である。彼女は、16世紀以降、オスマン帝国各地のペストの流行について、イスタンブールが「ハブ」になったと主張している。そこには常にペストが存在し、そこからオスマン帝国の各地に流行する流行の中心である。ヨーロッパのペストの流行については、諸国をまたがった広い地域に対してハブにあたる都市の存在は、私が知る限りでは報告されていない。この発見は、ヨーロッパと東地中海世界の関係を再考察させる重要な発見である。

もう一つは、15世紀の現象であるが、バルカン半島や東地中海のペストの流行は、ヴェニスから入ってきたという構図である。これは、黒死病の事例からなんとなく類推して、少なくとも私が漠然と想像していた、ヨーロッパより東の地域のほうがペストが濃厚に存在していたのではないか、むしろ、そこからヴェニスなどに到達して、ヨーロッパに流行していたという思い込みとは正反対の方向だった。

私が少し調べたことがある19世紀末から20世紀初頭のペストだと、中国の雲南省の奥地で常在していた病気が、広東やカルカッタなどの沿岸の通商のハブに到達し、それらを中心とした流行の「システム」が作られて、世界各地に広がる。そして、そのシステムの中で、そこを中心として流行がさらに拡散する「サブシステム」が作られる。日本でいうと、大阪を中心として瀬戸内海沿岸の各地に患者やペストネズミを発生させた大阪システムや、四日市を中心として伊勢湾沿岸の各地に流行を伝播した四日市システムが形成される。これから類推すると、当初は実はヴェニスがシステムかサブシステムのハブだったということなのか。

学会やワークショップで、ずっと知りたいと思っていた問題を研究した研究者の話を聞くことができる経験は、それほど多くない。今回の学会は、学者の共同体の中にいることの幸福を感じることができた。

ちなみに、英語 Wiki の black death で、黒死病の伝播についての動画がアップされています。簡単なものだけれども、これは教えるのにとても便利です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Black_Death