メランコリーなイヌと洗脳の精神医学

先日自伝を読んだイギリスの精神科医、ウィリアム・サージャントが1950年代に書いたベストセラー、『心をめぐる闘い』を読む。文献はSagant, William, Battle for the Mind: A Physiology of Conversion and Brain-Washing (London: Heinemann, 1957) これは古いものだが翻訳も出ていて、佐藤敏男訳『人間改造の生理』(東京:みすず書房、1961)

一読して当時大ベストセラーになったのも頷ける著書だと思う。宗教的な回心、政治的・イデオロギー的な洗脳、そして精神病・神経症の発症と治療のメカニズムがすべて「生理的・心理的」に同一であるということを議論している書物である。臨床例としては、彼自身も携わった、第二次大戦中の戦争神経症の軍人や非戦闘員(ロンドンの爆撃)を治療した経験や、薬物療法、ショック療法、ロボトミーなども織り込まれている。宗教的な経験は、ギリシアの熱狂的な舞踏に続く秘儀、イギリスのメソディストの興奮と回心の詳細な記録、ブードゥー教の儀式、同時代のクリスチャン・リバイバルも含められている。政治的な洗脳は、ソ連や中国といった「鉄のカーテンの向こう側」で行われている大規模な囚人や捕虜の洗脳と国民の教化が詳細に述べられている。そしてこれら全てに通呈するパブロフのイヌの実験は、繰り返し登場している。

科学への信頼、宗教への不信、冷戦下の不安、共産主義の他者化、それらすべてのものを含めて、膨大なマテリアルを駆使してシンプルな世界観を提示している。新保守層とでもいうのだろうか、つまり宗教には興味がないけれども共産主義はもっと胡散臭いと思っている人たちの色々な思いに答えたのだろうなと想像している。やはり、サージャントが軽蔑しているフロイトに対抗するためには、これだけ水準が高い-プロパガンダとして水準が高いという意味だけれども-書物を書かなければならなかったのだろうか。英語圏では今でも新版が出ているらしい。みすず書房も、この書物の改版を出せばいいのに。不適切な喩えかもしれないが、ヒトラーの『我が闘争』が売れるのと同じ意味で売れるだろう。

 面白かった部分は沢山あるが、ひとつだけ。サージャントが紹介するパブロフは、ストレスに対する反応に応じてイヌを四つの気質に分け、これはヒポクラテス以来の四体液説と同じだといっている。つまり、胆汁質、多血質、粘液質、メランコリー質に対応して、強興奮型、快活型、静穏型、弱制止型の四つのイヌの性格類型を区別し、それぞれによって行動が崩壊し条件反射が消え去る閾値も違えばパターンも違うというようなことを言っている。(メランコリックなイヌというのはルネッサンスの図像学以来のテーマ!)クレッチマーから学んだものだと思うけど、パブロフにおいては古典医学の「気質」論が20世紀の戦闘的に科学的な医学で再生している。――なぜだろうか?