ユルスナール『黒の過程』と「医学と文学」

 マルグリット・ユルスナール『黒の過程』岩崎力訳(東京:白水社、2001)を久しぶりに読み返す。実に20年ぶり。内容はきれいに忘れていた(笑)

 日本の医学部の学生向けに、アメリカやイギリスで定着している「医学と文学」の授業を教えるとしたら、どんなコースになるのか、ふと考えたことがある。医学生たちが読んで<ためになる>作品、しかもそれを深いメッセージにして伝えることができる文学作品を、バラエティを持たせて10点くらい選ぶとしたら、何を選んで、どんな主題になるのだろうか?アメリカの大学のこの手の授業のシラバスを眺めてみると、アメリカ文学を中心に色々な作品が並んでいるが、私が知らない作品のほうがはるかに多い。その中でわずかに知っているもの、例えばトルストイの『イヴァン・イリッチの死』は患者の病の経験の話を、カフカの『変身』は障害者の家族内での孤立のような話をするのかなと想像している。

 アメリカのこの手の授業のシラバスであまり見かけなかったけど、今回この作品を読んで、医学生に読ませる文学作品の筆頭じゃないかと思った。ルネッサンスから宗教改革の時代に生きた錬金術師にして自然哲学者、そして医者のゼノンという架空の人物を主人公にした歴史小説である。この作品が、当時の医学思想と医療の実践の歴史に照らしてどの程度「正確」なのかを判断することは私には到底できないが、博学のユルスナールだから、歴史的にかなり正確なのだろう。それに、もともと歴史を教える授業ではないから、細かい歴史的な正確さはあまり問題にならない。

この小説が描いている、科学研究者と生活者のディレンマみたいなもの、一方で人体と宇宙の神秘の研究者であり、同時にその知識を使って生活のために医療を行っていることに対する乾いた諦めのようなもの、これを医学生に読ませると面白い。科学研究に対して形而上学的なシンパシーを表現する一方で、それを批判的に突き放して書いた文学作品は必ずしも多くない。「医学と文学」のコースが、医学の臨床的な側面にばかり集中するのは片手落ちである。この手の授業を持たれる先生が、もし万が一いたら(笑)、ご参考までに。

アメリカの医学部で解説されている「医学と文学」シラバスの一覧はこちらの Literature and Medicine から
http://endeavor.med.nyu.edu/lit-med/Syllabi.html

そうそう、ここで皆さまから「医学生に読ませると面白くてためになる文学作品・医学生に読んで欲しい文学作品」をご推薦いただきたいのですが、どんなものがありますか?