人痘の民衆文化

別の新着雑誌から。18世紀のニューヨークにおける牛痘の受容についての論文を読む。文献はGronim, Sara Stidstone, “Imagining Inoculation: Smallpox, the Body and Social Relations of Healing in the Eighteenth Century”, Bulletin of the History of Medicine, 80(2006), 247-268.

 1720年代にトルコからイギリスにもたらされた人痘の知識は、緩慢ではあったが、着実にイギリスとアメリカの英語圏に広まっていった。1798年にジェンナーの種痘(牛痘)が公表される以前に、人痘はかなり広まっていた。 人痘が人々に受け入れられるとき、民衆文化はこの予防法を古い病理学の枠組みで解釈しなおしていたことを分析した論文である。 

 「痘」を作って体内の毒を熱によって排出することが、当時の血液中心の体液病理学に基づいた天然痘の治療の原理であった。人痘を植えてそれが皮膚の表面に「痘」となって現れることは、彼らが知っていた天然痘の治癒のイメージにだぶって捉えられた。この「読み込み」に基づいて、人痘は受け入れられたのである。

 人痘をめぐる宗教的な議論は有名である。神が与えた病気である天然痘に対し、それを予防することは摂理に介入する冒涜であるという批判があったが、そういった批判に対抗するために用いられた病理モデルが一番面白かった。そのモデルでは、天然痘は感染症として外から人体に侵入するのではなく、人体の中から発生してくるのである。人体の中にもともとあった病気の<もと>を、外に出してやることが人痘を植えることであるなら、それは神の摂理への反抗にはならない。予防法を、エクスターナルな要素に合わせながら概念化して解釈した結果、病気の根本的な理解も変わっていくダイナミックな仕組みに光を当てた論文である。 面白かった。