リヴァプールのコレラ暴動

 リヴァプールにおけるコレラ暴動を研究した論文を読む。文献はBurrell, Sean and Geoffrey Gill, “The Liverpool Cholera Epidemic of 1832 and Anatomical Dissection – Medical Mistrust and Civil Unrest”, Journal of the History of Medicine and Allied Sciences, 60(2005), 478-498.

 19世紀のコレラ流行時にはヨーロッパ各地で民衆暴動が起きて、歴史家たちがその意味をめぐって議論している。日本では明治十二年のコレラ流行時に各地に頻発した一揆が有名である。この論文は1831-32年のイギリスの第一回のコレラ流行時に、最も激しい民衆暴動を経験したリヴァプールの事例の研究。

 1832年の5月29日から6月10日までの二週間足らずの間に、大きなものだけでもリヴァプール市内で合計八回の暴動があったというのは驚いた。これらの暴動は医者をターゲットにしたものであった。この背景には、解剖実習用の死体を非合法に調達していた医者への民衆の怒りが存在した。リヴァプールにおいては、1826年に死体の密輸計画が発覚し、二年後に地元の外科医が裁かれたことに始まる一連の流れの中で、医者に対する不信感と怒りは頂点に達していた。コレラ流行時に、医者が先兵となって隔離病院への収容を義務付けるコレラ対策が始ったことも、医者が解剖目的のために死体収集を行っているのではないかという<正当な>不安を抱かせた。そのため、これらの暴動は、医者をターゲットにしたものであるという、ヨーロッパの他の国(と日本)には、さほど強くない特徴を持っている。