コッホのコレラ菌

 コッホのコレラ菌発見の優れた分析を読む。文献はColeman, William, “Koch’s Comma bacillus: The First Year”, Bull.Hist.Med., 61(1987), 315-342.

 ロベルト・コッホは1884年にコレラ菌を<発見>した。コンマバチラスと呼ばれることになるこのヴィブリオを「見た」のはもちろんコッホが初めてではない。その意味で「コレラ菌の発見」というのは、このある意味で医者たちにとって馴染み深い生き物が、コレラという病気を引き起こすことを証明したということである。

 ところが、この発見は、コッホが自ら立てた「コッホの公準」に反していたことは有名である。ある病気の原因となる病原体を発見したと主張するためには、以下のことを実験で示さなければならないということをコッホ自身が4か条にして示した。その中でも、決め手になっていたのは純粋培養をした病原体を動物の体内に入れてその病気が発病するという部分である。ところが、コレラについては、動物実験というクルーシャルなステップなしで、特定の病気を引き起こす特定の細菌を<発見した>とコッホは主張した。ここまでは殆どの医学史の教科書に書いてあるだろう。コッホは動物実験をしようとして、色々な動物で試してみたが、どの動物もコレラにかからなかった。この状況で、コッホがどのような議論を組み立てて、手ごわい論敵がくつわを並べている学者たちを説得したのかということは、ずっと興味があった。この論文は、まさにそのような疑問に答えてくれる。

 とても豊かな内容のペーパーで、中心的な議論を要約することはちょっと難しいけれども、一言で言うと、コッホは細菌に対して「生物学的・生態学的」アプローチをして、どのような環境で生存する生き物なのか、という問いを立てた、ということになるだろう。コッホとコレラ発見を競争したフランスのチームにとっては、純粋培養は動物実験のための手段にすぎなかった。しかし、コッホにとっては、純粋培養・あるいは培養一般が可能な培地の条件というのは、公衆衛生の見地に用いることができる貴重な知見を含んでおり、しかも疫学的な観察と照応させることができるものだった。フランスのチームにとって、ただの化学実験の容器であったペトリ皿に、コッホは公衆衛生と疫学の小世界を投影することができたといえるだろう。フランスのチームが(おそらく競争心のあまり)、コッホの公準で勝負することに夢中になってしまったとき、当のコッホは、コレラが問題になっている現実の世界と実験室の空間をつなぐことができた、ということでもあるだろう。