必要があって、ロンドンのコレラ対策の歴史の古典をもう一度読む。文献は、Luckin, Bill, Pollution and Control: a Social History of the Thames in the Nineteenth Century (Bristol: Adam Hilger, 1986).
1853-4年にロンドンは、1832年、1849年に次ぐ、三回目のコレラの流行に襲われる。このコレラ流行は、コレラの水系感染説が明確に唱えられたという意味で、特別な意味を持っている。ジョン・スノウが古典的な疫学調査を行って、ロンドンの被害が大きかった地域に水を供給していた二つの水道会社のうち、テムズの下流で水を取り入れていたサザック会社の水道を利用していた世帯ではコレラの患者が多いことを証明した。ここからスノウは、患者の糞便によって汚染された水<こそ>が問題であるという、コレラの水系感染説を唱えた。コッホによってコレラ菌が発見されるよりも30年以上も前のことである。
スノウのような強い形で-「水<こそ>が問題である」-コレラを理解した医者は少なかったが、水の汚染の強調は、当時の主流であるミアズマ説の中に取り込まれて、他の要因と並べられながら次第に受け入れられていき、上水の取り入れ方や、その処理の方法についての規制を民間の水道会社に守らせるという形で、公衆衛生政策に結実していった。このあたりの事情をルーキンは的確に言い当てている。「スノウは、コレラの恐怖を、<危険な水>の問題として固定し、明確な形を与えた。それによって心理的な重圧を軽減した。」この場合の明確な形というのは、<水道管の中を流れる水>ということだろう。