ポルトガルのコレラと幕末・明治日本のコレラ理解

Almeida, Maria Antonia Pires de, “The Portuguese Cholera Morbus Epidemic of 1853-56 as Seen by the Press”, Notes and Records of the Royal Society, (2012)66, 41-53.
ポルトガルは1832年にはオポルトがコレラに襲われて全国に広がり約40,000人が死亡した。1853-55年にも大きなコレラの流行に襲われた。その新聞ではコレラについての記事が盛んに出版された。同時期の科学技術についての記事1600のうち720程度がコレラについての記事であった。そこで問題になったのはコレラが感染するかという議論であるが、主流の意見としては、貧しい愚かなものたちは、よせと言っているのにキュウリ、スモモ、不熟の果物を食べるからコレラになるのだというものがあった。これは食養生と自律・克己の問題としてコレラを理解する枠組みであった。安政と明治の日本においてもほぼ同じ枠組みが用いられ、この枠組みに細菌説を追加する形で明治政府のオーソドックスな議論が作られた。ドイツから輸入されたの西洋型の医学、特にその精髄としての細菌学と、日本の伝統医学との断絶がよく強調されるが、個人サイドにおけるコレラの防疫についてはその断絶を強調するのは間違っている。食べてはいけない食べ物の種類まで西洋と日本は同じである。

この現象について少し大きな話をすると、やはり、ユーラシアにおける医学理論の共有という大きな特徴の話をしなければならない。ヒポクラテス・ガレニズムの西洋・イスラム圏、アーユルヴェーダのインド圏、そして中国医学の中国文化圏において、古代―中世―初期近代においてそれぞれの医学が維持されて交流があったため、相互の浸透や影響があった。それを通じて、各地において類似した部分が作られた。もちろん、ユーラシアの各地において独特な方法や重要な違いなどは存在したが、それと同時に、類似性を作る動きもあった。古代医学というのは、まったく水と油のように異なっていたものではなかった。西洋医学の独自の学説が臨床にとって重要になるのは、やはり1800年移行のパリの臨床医学革命以降であった。その後に生まれた細菌学においても、内容としてはそれほど異なっていたものではなかった。19世紀末から20世紀初頭の日本のコレラ防疫が、日本の伝統医学と同じ言葉で語られていたことは、長いタイムスパンで見た時のユーラシア医学の交流と共有のベースがあったことを示唆するものである。