必要があって、藤野恒三郎『日本細菌学史』をチェックする。同書は、日本の細菌学の歴史について不可欠なレファレンスである。
昨日の記事では細菌の変異を理解する枠組みがあったかどうかという問題を取り扱ったが、その中に日本のいわゆる竹内菌論争を位置づけられるだろうと思いだして、この本と、もう一冊の大著の山本俊一『日本コレラ史』の両書を見たら、竹内菌論争についての理解が二人の著者の考えが大きく違っていたので、忘れないように記しておく。
竹内菌論争というのは、1902年に起きた東大衛生学教室―北里の伝染病研究所のあいだで起きた論争で、竹内という患者の体内から採取された菌がコレラ菌であるかそうでないのかをめぐる論争である。もともとは、1902年の6月に東京市芝区の竹内亀吉が、コレラのような症状を発し、駒込の避病院の収容されて死亡したことに端を発する。竹内の身体から二回にわたって採取された糞便をもとに、伝研の北里一派は真性コレラであるといい、東大の緒方正則は、フィンケレル・プリオール菌であるとした。この論争と、その対象をどう見るかということである。
この論争について私が憶えていた解釈は、山本の記述のほうである。つまり、「現在からみれば、この論争はコレラ菌の血清型あるいは非凝集性などの問題に迫っていたのではないかと思われる」という解釈である。つまり、両者のデータが食い違った理由は、コレラ菌がそもそも多様性を持つからということだろう。本来、そのことへと進んでいくべきなのに、東大―北里の敵意のせいで、議論は無意味で醜い対立のままに終わっていたという判断である。これは、変異が大きな学問上の問題として取り上げられることを、学者の政治的な事情が妨げたという解釈である。
それに対して、藤野は、東大が見た細菌と、北里らが見た細菌は、そもそも同じコレラ菌ではなかったとする。「両方とも患者竹内に由来するが、分離した人と時が違うために、この大事件が起こった。両方ともコレラ菌であったが、同定に用いた免疫血清の型が違っていたという小さな差異ではなかった。」と書いて、はっきりと山本の解釈を否定している。
というわけで、Amsterdamska と類似したモデルで竹内菌論争を位置づけられるだろうという小さな思惑は、ペンディングにしなければならなくなりました。これは、二人の科学者が「何を見たか」ということを確定しなければならない問題につながるから、私にとってはかなり厄介で大きなペンディングになる。