細菌の「変異」と初期細菌学

しばらく前に書いた記事について、舌足らずであるという批判を受け、また、重要な質問を受けたので、しばらくしたらそれらにこたえる記事を書きなおそうと思っている。そのための準備も兼ねて、関連する論文を一本読んだ。文献は、Amsterdamska, Olga, “Medical and Biological Constraints: Early Research on Variation in Bacteriology”, Social Studies of Science, 17(1987), 657-687.

この論文も重要な問題を二つ取り上げている。コッホたちは、細菌はその形態や生理的な特徴を変えることはないという原理を細菌学の一つの原理として立てていた。この「単一形態論」は、医療と公衆衛生への応用にどのような意味を持っていたかという問題。この論文の議論のコアを簡単にいうと、<病原体の有無が公衆衛生に重要なのであれば、その病原体は、不変でなければならない>ということになる。病原体に変異を許す理論的な枠組みの中では、見つけるものが何だかわからない、あるいはそれが変わってしまうのだから、「微生物の狩人」モデルの公衆衛生が成立しなくなる。

もう一つは、細菌学が依存することになった制度的な基盤が、細菌学の中身が発展するのにどのような制限を加えたのかという問題。有名な話だけれども、公衆衛生への応用という実践の文脈で、細菌学は制度化されることになる。コッホも北里もパストゥールも「公衆衛生の研究所」で高い学問水準の研究をしていたし、細菌学者は地方自治体の衛生課の仕事などに就職していった。この状況は、細菌の変異説を学問的に深めようとする方向にマイナスにはたらいた。単一形態論ではうまくいかないということ、つまり、細菌には変異があるということは、20世紀になるとすぐに明らかになって共有される。これは、普通の発想でいえば、「この変異はなぜ作られるのか」という方向に発展するべき重要な発見である。しかし、細菌学という学問が決定的な発展をとげて学問として制度化される時期に、公衆衛生という行政の枠組みの中に組み込まれて発展したため、この発見を学問的に発展させることができなかったという。細菌学が細菌の変異を研究する学問になるためには、それを成立・成熟・制度化させた公衆衛生に依存している状況から、生物学の視点を持つ学問へと移行することが必要であった、とまとめることができるだろう。

この洞察を発展させると、北里の伝染病研究所が、1914年に内務省から文部省・東大に移管された有名な「伝研移管事件」について、面白いことが言えるかもしれない。つまり、「内務省と公衆衛生の枠組みのもとで停滞していた北里の細菌学に、東大と基礎医学の若々しい視点をもたらした」と評価することはできないかな。でも、この程度のことなら、きっと小高先生をはじめ多くの優れた書物を読めば、どこかに書いてあるだろうけれども。