生態学的流行病論の確立

必要があって、20世紀初頭に古典的な細菌学から離れ、生態学的な流行病論に移行していく過程を論じた論文を読む。文献は、Mendelsohn, J. Andrew, “From Eradication to Equilibrium: How Epidemics became Complex after World War I”, in Chirstopher Lawrence and George Weisz, Greater than the Parts: Holism in Biomedicine, 1920-1950 (London: Routledge, 1998), 303-33. 自分がずっと興味があったことについて、どんぴしゃの説明をしている論文を読んで「目からウロコが100枚落ちる」快感を久しぶりに味わう。私の興味と言うことだけではなく、初期細菌学が持っていた内的な複雑性が、行政的な条件や、他の科学の分野との関連の中で、それとはまったく違う生態的な疫学に発展していく過程がエレガントに描かれている、必読文献。メモすることがありすぎたので、以下はランダムなまとめです。

現代のエコロジカルな疫学は、進化論的な視点と数学的なモデルに依存している。そこで語られているのは、平衡、システム、動態、生物学的な複合性、共存と共生である。この思考法は、それとは反対の考え方をする古典的な細菌学がすでに確立していた領域(感染症のコントロール)に導入された。すると、古典的な細菌学から生態学的な疾病論へと、いつ、どのようにして移行したかという問いを立てることができる。荒っぽく答えると、やはり第一次世界大戦後であろう。第一次大戦では、古典的な細菌学は勝利の絶頂にあった。昔ながらの病気は克服できた。しかし、そこに謎のインフルエンザがやってきて、何もできないまま厖大な数の人間が死んでいった。これとともに、古典的な「細菌の隠れ家をみつけてたたく」という、要素的な疫学に対する潜在的な反対が頭をふたたびもたげてきた。コッホに対するペッテンコーファーの批判、細菌学に対するイギリスの公衆衛生行政の批判などの古い対立は、単純化されたコッホ主義によってなくなったわけではなく、まだ潜在的に生きていた。フランスではパスツールがもともとビルレンスが変わることがあると考えていた。すなわち、ヨーロッパがコレラ、ペスト、黄熱などのエキゾチックに襲来する病気ではなく、中から発生する新しい病気、環境によって「変化させられる」病気が新しい公衆衛生の問題となった。これを説明するために、たとえばイギリスの疫学者たとは、ヒポクラテスやシデナムの「流行病体質」に依存しようとした。細菌学の「種」への着目ではなくて、そして「土壌」への注目。流行周期を説明するための数学的なモデルの仕様。これらが、戦間期の新しい公衆衛生のターゲットになったのである。