江戸時代の見世物と生き胆


未読山の中から江戸時代ものをぼんやり読んでいたら、面白い記述が二つあったので書き留めておく。文献は、鈴木 『江戸巷談 藤岡屋ばなし 続集』(東京:ちくま学芸文庫、2003)

野州都賀郡池森村(現在の栃木県鹿沼市池森村)の百姓初五郎の家に、初五郎の甥で長悦という盲人が同居していた。この長悦なる人物は、幼少時から少々知恵遅れで、不幸なことに盲人となり、しかも両親を失ったので、初五郎が引き取って世話をしていた。長悦は陰茎が肥大する奇病を病み、当初は薬などを求めたが、験なくそのままに放置していた。ある日初五郎がふと気がつくと、長悦が着座して陰茎を取り出すと自らの額にまで達するほどであった。初五郎はこれを見て大いに驚き、このような奇形が人に知られると両親の穢れになり、親族が物笑いの種になって人交わりもできぬようになるから、人前で陰茎を見せることは慎むようにいった。しかし、このうわさをどこで聞きつけたのか、あるいは長悦の知恵遅れの災いか、初五郎の留守のすきに、二人の男が長悦をだまして馬にのせて栃木町に連れて行き、そこで見世物小屋に長悦を渡して、鳴り物入りで木戸銭を取って長悦を見世物にしたという。

もうひとつは凄惨な話で、らい病の特効薬として生き胆を抜いた話である。寅年寅月寅の日の寅の刻生まれの者の生き胆はらい病の妙薬であるという言い伝えがあり、長くらい病を患っていた身延の太平次なる百姓が別の百姓と共謀して同じ村の百姓の三男を連れ出し、出刃で胸を切り開いて手を突っ込んで肝を引き出し、それを生のまま食った。太平次の姪も同病を患っていたので、この女にもそれを分けたという。臓器移植の概念とは根本的に話は違うけれども、ラテンアメリカだったかな、第三世界ではこれと似たようなことも起きていると聞く。こういう凄惨な野蛮と紙一重のところで、崇高な他者愛と最先端の医療技術を駆使した脳死・臓器移植が行われるところが、「身体」をテクノロジーで操作することを発見した現代の宿命なんだろうな。

画像は同書より。