病院は帝都の美観

未読山の中から、三田村鳶魚の著作を読んでいたら、とても面白い洞察があったので、抜書き風に。文献は、中公文庫から出ている「鳶魚江戸文庫」の21巻、『江戸の旧跡 江戸の災害』より。

江戸は寺社を持って装飾とした。泉石花木がそこに集められ、市民四時の遊観は必ず神詣で、仏参りであった。神社仏閣は江戸の飾りであった。今日の東京でも、大規模な建築美は直ちに名所扱いにされる。そうして、昔のとおり、東京の概観を装飾している。東京市の全面積の5割弱を焼失させた震災の被害を書き連ねたものを見ると、ここに江戸以来の寺社は意外に少ないが、新しい名所の多くが集まっていた。

この東京の眉目というべき土地に、病院が多い。焼失著名建物の一覧を見ると、神田に5、京橋に18、浅草に7つの病院が挙げられている。これらが東京を飾るほどの大規模な建築であったのをなんと考えよう。帝都の美観は、その幾分かを病院によってされていた。繁華な地域が療病に便利だとも思われない。考えにくいこの医者及び患者の心理は、たしかに現代生活を、後世からの研究者に与える、貴重な部分だと思う。それにしても、病院に装飾された大正の東京は、わが国の歴史あって以来、無類絶倫な都会であった。多分、異人さんのお国にも例のない光景だろう。

鳶魚のいう「現代生活」とは、つまり明治・大正期のことであるが、その時期の帝都の殷賑と美観の一翼を病院が担っていたというのは本当か、そして、たぶんこれは本当だと思うけれども、それはなぜか。さらに、これは、「異人さんのお国にも例がない光景」なのか-これは、私にはちょっと違和感がある指摘だけれども、他の国の病院が都市に与える美観について調べたことはないので、私が間違えているのかもしれない-。「後世からの研究者」で、この問題に取り組む人はいないのかなあ。破風造りの玄関が「駒込御殿」と言われた避病院がすぐに思いつくけれども。