未読山の中から、江戸の下肥についての記事を読む。文献は、岩淵令治「江戸の下肥の河岸について」『地方史研究』no.262(1996), 4-9. この論文は、「下掃除人」が河岸という積み出しの場の共同利用を核として仲間を形成し、特定の河岸を事実上占有し、「町」による支配に対抗したことを説得的に論じている。
近世日本には、都市住民のし尿を近郊農村の肥料(=下肥)として利用する仕組みがあったことはよく知られている。これを今の言葉で言う「リサイクル」と捉えて、「環境先進国・江戸」のすぐれたシステムを称揚したりすることは、少なくとも一面の真理を捉えている。また、し尿を運び出すシステムから、江戸が清潔だったと主張する論者もいる。自分たちが誇りにする粋と洗練を体現した都が清潔であって欲しいというのは分かるし、しかも前近代のシステムでこれが可能だったというのは、エコっぽくて素敵である。けれども、江戸が清潔だと主張できる根拠が、実は私には分からない。これは組織的に取られて較べることができる確固としたデータがないということもあるけれども、水系感染症―ここではあえて不潔感を出すだめに、糞便経口感染する病気と言わせてもらう―の代表であるコレラについては、同時代の大都市で較べてみることができる。江戸のコレラの死亡率は、1858年の時には、死者を3万から4万として、江戸の人口を100万とすると、人口10,000あたり300から400くらいになる。同じ数字をロンドンについて取ってみると、1849 年で50, 1853-4 年で40くらい。1832年のパリはかなり悪くて、400くらいだから江戸と同じ。これは、江戸のほうが清潔だということを自信を持って主張できる数字ではない。
この論文の著者がいう、「下肥」を優れたシステムとして過度に評価するのは一面的である、という主張は、その意味で多くの歴史学者が共有していることであろう。