石川・富山のコレラ

いただいた論文を読む。文献は、二谷智子「1879年コレラ流行時の有力船主による防疫活動」『社会経済史学』75-3(2009年9月)313-336.

石川県の有力地主で船主だった宮林家の記録を通じて、1879年(明治12年)のコレラの流行への対策に光を当てた優れた論文。明治12年のコレラでは、皆さんが大好きなコレラ一揆が各地で起きたため、明治新政府の中央集権的な新しい方法とその失敗という枠組みで見られてきたのに対し、この論文は、江戸後期・幕末期との連続の光の中で見ているため、近世の研究枠組みとつなげているという、(おそらく)より実り多い方法を取っている。特に、有力船主が商業の関係で築いた個人的なネットワークや、医師などから情報が流れて、それに基いて防疫活動を行ったことが強調されている。この行動の仕方は、江戸時代に村内の有力者がとった行動と同じであるという。明治期のコレラ対策は、江戸期に形成されたパラダイムを使って、そこに新しいものを盛ったのだという指摘は、正しいと思う。情報の流れに着目したのも素晴らしい。どうもありがとうございました。

本筋ではないけれども、細かいところで気になることがあって、それを一つ書いておく。コレラの被害の濃淡を論じるときに、たとえば宮林家がどこそこの村に石炭酸を配ったが、それが、その村ではコレラの被害が少なかった<理由>であるという、行われたことと疫学的な有効性に触れたい気分を漂わせている箇所がある。(想像するに、ここは、査読者との間で意見が分かれたのかもしれない。)確かに、それが可能性の一つであることは誰も否定しないが、この状況とこの証拠、そしてこの内容からは、それを言うと頭が悪く見えるし、頭が悪く見えても敢えて言い募る価値もないことだから、それには触れないのが賢明だと思う。この、「それを言い募ると頭が悪く見える」という感覚は、研究者の集団によって大きなずれがあり、医学史のような境界横断的な分野では、身につけるのがちょっと難しいし、逆に、頭が悪く見えてもいいから、領域の外からの視点が歓迎される場合もある。