安政5年の江戸を含む地域のコレラ大流行の際に、山梨県下の人物が記した日記の採録。オリジナルとその記録についての情報が収録されているから、すでに読まれているに違いない。いくつか面白い点は、天保5年の神仏に関する記録があり、それを批判して、役人万能で、官尊傲岸で、統治者が被統治者を軽蔑しているとか、面白いことを言っているのだが、その記録が漢文で私には読めないのが悲しい。熊野のカラス(鳥)、民間療法、コレラになる人間には狐憑きが多いから、狐憑きの狐落としとコレラ予防が重なっていた話など、どこかで読んだことがある事例の記録も多い。熊野の鳥はこのような感じ。
公衆衛生と地元の水の探訪が昭和17年にドッキングした不思議な論文。明治36年の記録を見ていたら、長崎市の夫婦川町でコレラの流行があった、その時はトッポ水が流行のきっかけであった、著者の才津はトッポ水を知らないので現地を訪ねた、それは新大工町市場裏より山沿に高商にいったところにある小道の途中である。この語源などを聞いてみたが、諸説があり、弘法大師が開いた泉で特効がある水なので「とっこうすい」が転じたという説、諏訪神社の「トッポ組」と関係がある、水が絶えないので「鉄砲水」だったがそれが転じたという説。現在のネットでは弘法大師が独鈷(どっこ)を用いて開いたから「どっこすい」が転じたという説が強い。ネット上には写真もたくさんあり、長崎特有の山に坂が折り重なった地域に家があるような趣がある風景である。