日本橋のコレラ


必要があって、明治の日本橋を回想した随筆を読んで、当時のコレラについての記述を見つける。文献は、長谷川時雨『旧聞日本橋』(東京:岩波文庫、1983)

明治12年に日本橋の油町で生まれ、後に女流劇作家の第一人者となった長谷川時雨が、彼女の子供時代を回想した書物。前後関係から明治19年の流行だと特定できる部分は、コレラ流行を経験した子供の記憶についての豊かな内容を含む。この年のコレラは、油町を「門並といってよりほど荒らした」ので、彼女は身近にコレラを経験していた。病人の出た家の厠は壊してこもを下げ、巡査が立ち番をし、当時5歳か6歳の彼女は、「くずゆ、そばがき、すいとん、にそうめんなど、あついものばかりを食べさせられた」。

親戚の女性で深川で芸者をしていた女性は、家に遊びにきて人力車に乗って帰る途中の車内で発病した。「すっかり相好が変わって、額は紫っぽく黄色く、目はボクンとおちくぼみ、力なく見開いている」という記述がある。車夫に特別な代金を払って、近くの家まで送り届けさせたという。

また、深川芸者には二人の兄がいたが、その一人はコレラで死んだ。死んだほうの兄について、「ありったけの遊びをして・・・コレラでなくても長くは生きないようになっていた」と書かれている。彼の「遊び」の詳細は記していないが、もう一人の、コレラを生き延びたほうについては、職を転々と換え、博打場に入りびたり、遊女と同棲したり、別の遊女と結婚したり、果てには親戚から金を借りたりする様子が書かれているので、だいたい似た傾向の「遊び」だと考えていいだろう。

「その男は、放蕩者だったから、コレラでなくても長生きできなかった。」この書き方はとても面白い。特に、長谷川が「コレラは放蕩者に与えられた因果応報の罰である」と書いていないことは重要だろう。不在に基づいて議論するというのは、歴史学ではリスキーなことだけど、実際に当時の新聞などでは、色々なヴァージョンの「因果応報論」が展開されている。コレラは公衆衛生上の大事件であり、長谷川の子供時代の記憶に一つのランドマークを与えるような出来事であった。それを議論する西洋近代医学の学知もあったし、必ずしも医学的ではないし、西洋的でもない学知を通じて理解されるものでもあった。「因果応報論」もその一つである。それと同時に、コレラによる死は、個々の知人や隣人の人生の中で意味が与えられ、その知人の人生を納得するためのテンプレートでもあった。長谷川は、放蕩者がコレラ流行時に死ぬのは、「偶然の符合だけれども、納得できないわけではない」現象だと書いているように見える。

この手の資料はもっとたくさんある。 ロイ・ポーターは20年前に、このタイプの資料を探して「患者の社会史」を書いた。 懐かしいな。  

画像は同書にあった、「行列ができるコレラ除けボタもち」の様子。 長谷川時雨の父が描いた画帳からの一枚で、たぶん安政のコレラの時のものだろう。