精神分析小史

必要があって、精神分析の歴史のポイントをコンパクトにまとめた小論を読む。文献は、Shamdasani, Sonu, “Psychoanalytical Body”, in Roger Cooter and John Pickstone eds., Companion to Medicine in the Twentieth Century (London: Routledge, 2000),307-322.

レンベルガーの大著以来、心理学的精神医学のフロイト中心主義からの脱却が進んでいる。この小論もその方向を踏襲して、精神分析の興隆と衰退に新鮮な光を当てている。まず、20世紀のアメリカを中心とした西欧社会における精神分析の成功を、その理論に内在する特徴によって説明することに懐疑的な態度をとる。特に、20世紀社会の変革に伴って生じた根本的な問題に精神分析がどのように答えたかという方向のゲームをしない。

これと関連することだが、フロイトの独自性を過度に強調しないこともこの小論が示している方向である。、精神分析は、19世紀末からの心理学・心理療法と良く似た特徴を共有している手法として捉えられている。そう考えると、精神分析の成功は、他の心理療法などとは違った外的な(エクスターナルな)特徴を持っていたからであると考えるられるが、この著者は、精神分析の組織のされ方が鍵を握っていたと考える。精神分析は、急速に排他的な組織になっていく。精神分析を実施していると名乗ることができるのは協会の会員だけになり、後に教育分析を受けたものだけが精神分析を行えることが制度化された。このように、イニシエーションを経たものたちだけから構成される、明確な境界をもった心理療法のテクニックとして自らを定義したことは、精神分析に少数のエリートたちによる先鋭な集団というプレスティージを与え、人々はこのプレスティージの暗示にかかった。また、著者はこういう書き方はしていないけれども、このように外延的な境界が明確なだけに、その内容や方向性については、多様な解釈や方向性を許すという、内なるフレキシビリティが確保されたという事情もあるだろう。

この章のもう一つのポイントは、症状の客観性をめぐる議論である。ヒステリー患者の症状が、そもそも病気に備わっている治療的な介入とは独立した症状なのか、催眠による暗示であって治療的な介入の産物なのかという議論があったのは有名である。この時代にウィリアム・ジェイムズなどが指摘しているように、患者は医師の期待に沿った<症状>を示すし、一方で医師が持つ理論的な期待は、印象に強く残ったある特定の患者がテンプレートとなって形成される。医者は患者に影響を与え、患者は医者に影響を与えて、観察するべき・発症するべき症例が、医者と患者の共謀関係によって形成されてしまう。ある種の症状の発現が増幅される再帰的な構造をめぐる論争が、少ないスペースでコンパクトに論じられているのもこの章の特徴である。

私が知るかぎりでは、精神分析の歴史の初歩を知っている学生に読ませる短いものとしては出色のものである。