『家畜人ヤプー』

先日、二人の若手の研究者たちと話しているときに、どちらも『家畜人ヤプー』を読んでおらず、うち一人はタイトルすら知らなかったので、ちょっと驚いた。沼正三作のSF・SM小説のアングラの古典として名高いこの本は、20世紀医学史の「ウラの教科書」と言っても過言でない作品だと私は思っている。
 
 沼正三家畜人ヤプー』は、その奇想に満ちた知的構想力と、医学知識、そして英語とドイツ語の語彙力に裏打ちされた言葉遊びのセンスなど、どれをとっても抜群の水準なのに、それに比して知名度が低いのは、この書物で語られる思想があまりにも危険だからだろう。それは完全無欠な人種主義の世界である。最高の地位には白人が、彼らの奴隷として黒人がいる。その下に、同じような人間に見えても、実際は知性を持ったサルでしかない人種がいて、白人は優れた科学にものを言わせてこの人種を家畜としている。大方の人は想像がつくように、ヤプーと呼ばれるこの人種は日本人のことである。多くの日本人には不愉快でしかるべき内容である。現代のドイツならば、この本はナチ思想に非常に近いものを語っているとして、おそらく発禁になるとか、そのような処置を受けるだろう。この本を、公の場で推薦することが非常にためらわれるのは、一重にその内容であり思想である。

 それにもかかわらず、この書物の知的水準は高いと言わなければならない。そして、そのSFとSMの奇想は、20世紀の医学を理解するうえでの大きなインスピレーションを与えてくれる。優生学、人種主義、生体を通じた汚物処理システム、外科による人体改造など、「医学・生物学思想に基づいて構想され、医療・公衆衛生技術によって実現されるディストピア」を徹底的に描いているからだ。同じようなSF小説、例えばハックスリーの『素晴らしい新世界』をはるかにしのぐ構想だと思う。

 なお、この書物の著者に関しては、いまだに憶測が飛び交っているらしい。きっとコアなファンや専門の研究者は別な意見を持っているのだろうけれども、私が読んだ印象では、途中で著者そのものが代わっているように思えてならない。