ロンドンのペスト2



未読山の中からもう一つロンドンのペストの本を読む。文献は Bell, Walter George, The Great Plague in London in 1665 (London: John Lane, 1924).

著者は前世紀初頭に多くの本を書いたロンドンの好古家で、同書はロンドンのペストについての古典的な名著として名高い。膨大な事実を手際よくまとめて、印象的な事例をヴィヴィッドに語る語り口は、名著の名に恥じない。王や貴族、大商人たちがロンドンを逃げ出したことを批判的に語る一方で、残されたロンドンの貧しい人々に対して彼らが施した慈善も強調するあたりは、とても参考になった。

疫病の歴史を語るのに、画像資料を使い始めたのも、きっと新しいのであろう。記事のトップにかかげた1665年のブロードシートの説明を少し。 

背景にはロンドンの4階建ての街並みが描かれている。三つ描かれているうちの一番左のバルコニーの下のドアには、赤い十字が描かれているが、これはその家からペスト患者が出て、患者と家人がそこに40日のあいだ隔離されて閉じ込められていることを示す。ドアには「神よ、われらに慈悲を!」と書いた紙が貼り付けられ、ドアの前には人が出入りしないように監視している見張りが立っている。中央には、街をうろつく犬を殺して廻る犬殺しが描かれ、殺された犬が手押し車に乗せて運ばれ、河などに棄てられた。ロンドン市は、ある犬殺しに、4400匹近い犬を殺した報酬が払っている。

左に描かれている二人の女は「サーチャー」(searcher ) と呼ばれた、死者が出た家を訪れて死因を特定して報告する仕事を任じられたものたちである。それと一目で分るように白い杖を持っている。サーチャーたちは、貧しい老婆がわずかばかりの報酬で市などに雇われることが多く、<当時の基準で言って>正確に死因を特定する医学の素養がないうえに、わずかばかりの賄賂で事実と違う死因を報告する可能性が高く、彼女たちの報告をまとめた週刊の「ロンドン死亡表」(上に掲げた)の正確さを疑う一つの有力な根拠となっている。右端では、患者が籠にのせて隔離病院に運ばれている。ロンドンの隔離病院は、ミラノのそれのような巨大なものではなく、間に合わせの小屋を必要に応じて建てたようなものであった。籠の前の道路で燃えているのは石炭で、何かを燃やす異臭が空気を消毒してペストの原因であるミアズマを掃うという考えで、盛んに行われた。 

図表は1665年のブロードシートの部分と、同9月の一週の死亡表。週の死者5568人のうち4237人がペストで死亡している。なお、死亡表の死因には色々謎めいたものが並んでいるけれども、teeth(歯)というのは、虫歯で死んだわけではなくて、乳歯が生え始めるころの乳児死亡の意味。 私が好きなのは、やっぱり Suddenlyかな。 「死因は?」「急に死んだんです」(笑)