『家庭の医学』とガンの介護文学

知人に薦められてレベッカ・ブラウン『家庭の医学』を読む。アメリカ文学者の柴田元幸が、おそらく原作の雰囲気を良く伝えている文体で翻訳している書物が朝日文庫から出ている。

『家庭の医学』という題名で、体裁は「貧血」「化学療法」「幻覚」などの医学用語を、一つの章で一つずつ掲げているが、その内容は、作者の母がガンで死ぬまでの様子を描いた作品である。私が小さかった頃に、家に『家庭の医学』という大きな本があって、私は子供時代にそれを読みふけっていたけれども(笑)、その類の実用書ではまったくない。

一言で言うと「介護文学」ということになるのだろう。近親者の闘病と死に付き添う私的な経験を描いている。この非常に私的な書き物に、Excerpts from a Family Medical Dictionaryというタイトルがつけられているところの不思議は、「訳者あとがき」でも的確に論じられているが、それに少しだけ補足するとしたら、長いこと医学という学問の根本にあり、現在でもほぼ間違いなく存在する「普遍と個の緊張」という問題である。

疾病や生理は、それこそ辞典的な、科学的で普遍的に妥当する言葉で語られるが、その現象が生じるのは個人の身体であり、そこには一人ひとり異なると私たちが信じている「人格」が宿っている。この「人格」というのは、たいていの場合自分は健康だという前提のもとに成立している。ソンタグの言葉を使うなら「健康者の国」の住民だと思っている。「健康者の国」というからには「病気の国」があるのだけれども、重要なことは、この「病気の国」に住んでいるのは、生身の人体だったり個性ある人格だったり知人だったりすることもあるが、それ以上に「抽象概念」であることが多い。自分自身や近親者が、「名前を聞いたことがある病気」(たとえばガン)になったときに、抽象的だったものが、私たちのすぐ身近、あるいは自分の体のなかに、それがやどるようになったという衝撃がある。江国滋さんという評論家のガン闘病記の俳句集で「残寒やこの俺がこの俺が癌」という作品が記憶に残っているけれども、これも、科学的に定義された病理現象が個人の身体や人格に宿ったときの違和感を表現しているのだと思う。 

日本人の半分がガンで死ぬ時代に、ガンになったことを告知すると衝撃を受ける患者が多いことなどを指摘して、それを「日本人は自分たちが死なないと思っている」と非難するお医者さんがいるが、私には問題を捉え損なっているとしか思えない。