必要があって、濱田秀伯『精神病理学 臨床講義』(東京:弘文堂、2002)の必要な部分を読み返す。
しばらく前に教えていただいてから愛用している精神病理学の教科書である。私は精神医学者ではないから、専門的な見地から評価することはできないし、他に評価が高い類書も沢山あるのだろうけれども、私にとってはこれ以上の教科書はちょっと想像できない。ある特定の精神医学の「立場」に偏ることなく、古典的な症例と著者自身が診察した症例を交えて、ある症状をわかりやすく解説している。さらに、精神医学の症例だけではなくて、その症状を明らかにするような文学上の記述を古今東西の文学から採っているところも、精神医学の専門家ではない学者には大きな魅力になっている。歴史上の文書の中に現れる患者の精神世界そのものについての洞察を必要とする仕事をする時には、この書物を読むようにしている。
たとえば今日読んだ「幻覚」の章では、精神医学の症例に加えて、ゲーテ、大岡昇平、ロベルト・シューマンなどから、わかりやすい形で抜粋されている。その中から夏目漱石(『道草』)とジャンヌ・ダルクを抜き出してみた。
「おまえは畢竟何をしに世の中に生まれてきたのだ」彼の頭のどこかでそういう質問を彼にかけるものがあった。彼はそれに答えたくなかった。なるべく返事を避けようとした。するとその声がなお彼を追及しはじめた。何べんでも同じことを繰り返してやめなかった。彼は最後に叫んだ。「わからない」その声はたちまちせせら笑った。「わからないのじゃあるまい。わかっていても、そこへ行けないのだろう。途中でひっかかっているのだろう」「おれのせいじゃない。おれのせいじゃない」健三は逃げるようにずんずん歩いた。
ドンレミの村人からは、おとなしく素直で信心深い娘と言われていた。13歳のころ、行いをただし教会に通うようにという声を聞いた。声は真夏の正午ころ、右の方、教会の方角から聞こえ、同じ方角から沢山の光が見えた。威厳のある声で初めは恐ろしく感じたが、繰り返し聞くうちに天使聖ミシェルだとわかった。声は明瞭なフランス語で彼女に話しかけ、内容は「おまえはイル・ド・フランスに行かねばならない」などの命令と「オルレアンを解放するだろう」などの予告が混じり、「自分は貧しい娘で馬に乗ることも戦闘の仕方も知らない」と反論する彼女との対話になることもあった。17歳のとき、声の導くまま村を出て、ヴォールクルールの町の守備隊長ロベールに会い戦闘に参加している。声は二人の聖女カトリーヌとマルグリットが加わり、毎日「乙女ジャンヌ、神の娘」と話しかけ、頭に冠の飾られたその姿も見えた。彼女はこれらの声に励まされ、自分が神から遣わされたと歓喜のうちに確信し、時には自ら声の指示を求めながら、その命令を忠実に実行しようとした。