ケルトの神話

未読山の中からケルト神話の入門書を読む。文献は、井村君江『ケルトの神話 女神と英雄と妖精と』(東京:ちくま文庫、1990)

アイルランドを中心に保存されているケルト神話を紹介する本。色々な神話エピソードの紹介と解説が中心だけれども、章によってかなり性格が違っていて、神話の物語をたぶん筋に忠実に物語っている章もあるし、神々の系譜や性格を概説的・説明的に述べている章もあって、ちょっと読みにくい印象がある。前者の性格を持つ章の中では、光の神ルーの息子であるク・ホリンの冒険と死を物語る章が一番まとまっていて読み応えがある章だった。それから、著者もたびたび触れていたけれども、ケルトの女神たちは、恋に酔い、性愛に酔い、戦いと殺戮に酔う、かなり野性味がある女神たちだった。これは、優美さとかたおやかさなどの、いわゆる女性的な美徳を、別世界の住人だけどこの世にも顔を出す「妖精」という存在に任せることができるからなのだろうか?

昨日のインド神話の記事を書くときも頭をよぎったのだけれども、「神話がわかる」って、いったいどういうことなのだろうか?神話学者なり、文学研究者なり、学問の対象として神話を研究する人たちがいて、その中での文献批評だとか、学問的な色々な手続きがあるのは、それはわかるし、私は学者だから、もちろんそういった仕事には共感する。でも、私が小さいときに読んだ「子供のためのギリシア神話」の英雄たちの悲劇だとか、たぶんオヴィディウスとかブルフィンチとかに基づいた、たぶん粗雑で偏った神話理解の中で作られた神話の物語風のテキストが、とても「わかった」気がしている。同じように、「聖書物語」なんかを読んで、全能の神への帰依だとかもわかったような気がしている。だから、私はギリシア神話や聖書のイロハならわかっていると思っているのだけれども、それは「誤解」であり、私の傲慢なのだろうか? いえ、これは、何を書きたいのか、問題の所在すらわかっていない段階での独り言で、茫漠とした言い方で申し訳ないけれども。