聖フランチェスコの庭

未読山の中から、アッシジの聖フランチェスコについての面白い論文を読む。文献は、Kiser, Lisa, “The Garden of St. Francis: Plants, Landscape, and Economy in Thirtheenth-Century Italy”, Environmental History, 8(2003), 229-245.

小鳥に説教したことで有名なアッシジの聖フランチェスコは、近年の環境意識の高まりの中で注目されていて、自然収奪的であるキリスト教と西洋文明に挑戦した思想家・実践者とみなされることもある。この論文は、ちょっと視点を変えて聖フランチェスコが「庭」を所有していたことに着目し、その庭にこめられた意味を探るもので、とても面白い。

聖フランチェスコは1226年に没したが、没してすぐに、弟子の中での考えの相違が現れた。彼の思想を奉じ彼の名を冠した修道会の中での、その方向性についての対立である。私有財産を放棄するという彼の考えを厳格にとるものもいたし、一方で、本や衣服や建物くらいは所有してもいいだろうと、緩くとって修道会を発展させようとしたものもいた。

その中で、後者に属するある弟子が、聖フランチェスコは庭を所有していたと書いているが、これは、聖フランチェスコのことをよく知っている人にとっては驚きだそうだ。(私は全く驚きませんでしたけど・・・笑)庭というのは、ある土地を私有した結果の財産そのものだからである。これは、先に触れた弟子たちの対立と関係があって、つまり、フランチェスコは庭を所有していたということを記した弟子は、弟子の中でも穏健派で、フランチェスコ会は、他の修道会なみに庭を所有していてもいいじゃないかという含意があったとのこと。

しかし、そこは聖フランチェスコ会だから、『薔薇物語』に出てくるような塀に囲まれて、その中に贅を尽くした空間が広がっている庭ではない。まず、その庭には境界がなかった。堀なり塀なりで「囲まれている」ことは、西洋の庭(そしてたぶん日本の庭にも言えると思うけれども)の重要な条件であった。その「区切り」を否定することは、もちろん私有財産の否定との関連もあるが、人間以外の種に対する平等な愛ということもあった。

神は万物に平等に愛情を注がれたが、人間が、人間にとって有用な生物(この場合は野菜や薬草や果樹などの植物)だけを珍重し、そうでないものを根絶させることは、神の意思に反している。だから、区切りをなくすことは、神の意思なのだ。花をつける野草などが自由に庭に入ってきて、そこで思いもかけぬ美しい花を咲かせるような空間になる。庭というのは、本来は、「望ましいもの・望ましくないもの」という強烈な差別を植物の種に行使する空間だが、その差別をなくそうというのである。そして、人間に有用な植物だけを植えて楽しむ庭を否定したフランシスコの動機の背景には、当時のイタリア、ウンブリアやトスカナで展開していた大規模で資本主義的な農業が、同地の風景を変えていたということがある。

すごく面白い論文だったけど、一言だけ、余計なことを言わせてもらうと、「区切りをなくして種のえこひいきをやめると、野の花が自由に庭を訪れて、予期しない美しい花を咲かせる」という言葉を、現代の日本のガーデニングをする人に言うと、きっと、冷たく笑われるのがオチだと思う。区切りをなくして、種のえこひいきをやめると、日本では雑草が繁茂するだろう。もしかしたら、ある雑草の種類が他を圧して、エコロジストたちが大嫌いな「モノカルチャー」になるかもしれない(笑)。モノカルチャーになるとしたら、それはカタバミではないかと私は思っているけど(笑)。

あれは、草野心平だったかな、国語の教科書によく出てくる雑草をめでた詩がありましたね。