社会科学としての歴史

偶然、社会科学としての歴史理論に関する論文を何点か読む。文献は、Social Science History の2008年冬号に掲載された、William H. Sewell の Logics of History の小特集。George Steinmetz, Dylan Riley, David Pedersen の三人が Sewell の書物を批判的に論じていて、Sewell がそれらに答える構成を取っている。

弱点がない学者はいないと思うけれども、私もご多分にもれず沢山の弱点を持っている。人一倍多いかもしれない。特にこの1,2年間で、社会学や社会科学色が強い歴史の研究者と内外で接する機会があり、自分が社会理論に弱いことを痛感する機会が多くあった。医学史という領域の中で色々な方法論を使えることに関しては、それを意識して仕事をしてきたという若干の自負があったが、それを超えたところでの勉強が足りないのは、やはりいけない。

恥を忍んで書くと、今回の小特集を読むと、スゥーウェルという研究者・論客の名前も聞いたことがなかった。歴史的な事件というのは何か、歴史の構造とは何か、構造の中での個々人などの主体性というのはどのように理解すべきなのかという、これまで私が論文を書きながらいい加減にしてきた問題が正面から論じられている。例えば次のような洞察は、そうか、そう考えればよかったのかと、臍を噛んだ。

「構造というのは、社会的な行為の媒介であると同時に結果でもある、二重性を持っている。人間の主体性と構造というのは、対立するものではなく、相互に前提しあうものなのである。」

「歴史的な時間というのは、<宿命的>なものであり、<取り消すことができない>ものである。ある事件が起き、行動が取られてしまうと、それは人々の記憶の中に刻み込まれてしまい、それが起きる状況を取り消すことができない形で変えてしまう。これを、経済学から借りた言葉で<経路依存的>と呼ぶのは、科学的に見せかけた言葉で表面的に言い換えているに過ぎない。その意味で、<宿命的>という言葉のほうがふさわしい。」

詳しいことは、スゥーウェルの書物を読んでみないと分からないけれども、ここから広がる洞察から多くを学んで、医学史研究に還元する必要があるんだろうな。