『ほんとうの敬語』

出張の移動中に読んだ雑駁な読書の無駄話。萩野貞樹『ほんとうの敬語』PHP新書から。

私も、現代人のごたぶんにもれず、敬語がきちんと使えない。 ネット上で「敬語テスト」の類をやってみると、たいてい惨めな結果になって、自分がどんなにみっともない言葉遣いをしているのかといつも気に病んでいる。実は、この本を買った記憶はあまりないのだけれども、きっと、アマゾンか何かで見かけたときに、その気がかりが原因で、誘われて買ってしまったのだと思う。

「日本語は敬語である」という主張から始まる。「太陽は東から昇る」のような、教科書や辞書のような文体の文章で生活することはできない。著者が「生活言語」と呼ぶものにおいては、「東から昇ります」のように、敬語をつけなければ、文章は非常に不自然になる。そして、敬語というのは、上下関係を示すものであるという主張が展開される。著者がいうところの、現在の国語学の主流でいわれているような、自己の品格を高めるとか、そういうものではなくて、上下関係だけで敬語を説明できるのだと力説される。このあたりは、きっと学者の世界では異端的なんだろうけれども(本人がそういっている)、面白い。 国語学に民主主義と平等の原理を持ち込んで説明しようとしたため、敬語という、本来上下関係を表すものの本質が見えにくくなっているというのが立論のポイントである。このあたりも、当たっているかどうかは別にして、面白く読んだ。 

読者からの質問を想定して答えるところがあって、著者の立場(と知的な姿勢)が鮮明にされている箇所があった。

Q 「正しい敬語とかいっても、言葉って時代とともに変わるものでしょう?先生はちょっと頭が古いんじゃありませんか?」
A 「いや、おっしゃいますね。私の頭が古いんじゃないかとのことですが、さよう、もちろん古いのです。(中略) 言葉については、正誤・適否の基準が、つねに「古いところ」にあります。最新のファッションとか、時代の先取りとかいうところからもっとも遠いところに言葉を考えるための基準点があるのです。理由は簡単なことで、言葉というのはできるだけ変形・腐食しないように「保守」されなければ役に立たないものになるからです。したがって言葉の問題を考える人はかならず「保守的」でなければなりません。(中略) [みじかい期間での言葉の変化は」すべて「乱れ」です。」 

まあ、威勢がいい啖呵だと言ってしまえばそれまでだけれども、なるほどね。 こういう開き直り方があるんだ(笑)