「じたんだを踏む」

必要はまったくなかったけれども、昔が懐かしくなって、別役実『道具づくし』(東京:早川書房、2001)を読む。 今日は無駄話です。

私が大学に入ったのは30年近く前だけれども、そのころは、学生演劇が大いに盛り上がっていた。キャンパスに立っている「立て看」は、政治団体と演劇が半々くらい、いや、演劇のほうが多かったかもしれない。私は劇団には入っていなかったけれども、多くの友人が入っていたし、私もわりとよくお芝居を観ていた。その頃の人気があった劇作家の一人が別役実で、彼が書く文章を読むのも好きだった。不条理な世界を描いて、委細かまわない圧倒的な腕力で人間と世界の奥底へとぐいぐい引きこむような文体とリズムが、あの頃の「気分」だったと言えばいいのかな。 

『道具づくし』というのは、アカデミックな民俗学・国語学・哲学のパロディである。民俗学の口ぶりをまねて、実在しない道具の用途を説明したり、あるいは実在するものの意味をわざと取り違えた説明をした短文をたくさん集めた作品である。私がこう書くと、面白くもなんともなくなってしまうけれども、30年近くたってから読み直しても、昔と同じような「本当にさわやかな大笑い」というのをすることができる。

・・・とか説明しているより、一節を抜書きします。

「じたんだ」 弾性のある半透明の練り物の一種であり、関東以北においては「こんにゃく」と言っているところもある。「じたんだを踏む」という慣用句によって知られている通り、これは、ある種の屈辱を味わったものがその興奮状態を沈静化すべく、「踏みしだく」ものとして発明され、「こんにゃく」というのは、それを踏みながら唱える「このやろうめ」もしくは「このやくたいもないものめ」という呪文の転じたものとされている。(以下略)