オナニズム言説の通俗化

必要があって、18世紀のマスターベーション理論についての論文を読みなおす。文献は、Jordanova, Ludmilla, “The Popularization of Medicine: Tissot on Onanism”, Textual Practice, 1(1987), 68-79. 短いけれども鋭い洞察が盛られていて、インスピレーションに富む。

ティソの『オナニスム』はマスターベーションの危険を説いた書物の中で最も成功したものである。各国語に訳されて、18世紀の医学書の中でも最も成功した部類に入る。ヴィクトリアンの前兆のように捉えることもできるが、これは、医学的な「アドヴァイス・ブック」、すなわち健康的な生活のための助言集で、同時期の「コンダクト・ブック」の興隆と関係がある。この書物は、ティソの著者としての存在感・権威が大きな書物であり、その中に、古典と現代の権威も織り込んである。健康アドヴァイス書というのは、著者の「個性」が全面に押し出され、場合によっては自伝が織り込まれることが多い。有名なところでいうと16世紀のヴェニスのルイジ・コルナーロもそうだし、18世紀のジョージ・チェイニィもそうである。それから、「患者」が登場してくるという仕掛けも重要であろう。

一昔前なら、勤倹貯蓄を旨とするブルジョワジーの価値観に合わない「浪費」が悪徳となった、というような説明で事足れりとしていたのだろう。もちろん、事態の一側面は捉えている説明ではあるけれども、そんなに大事な側面ではないと思う。 それに比べて、ジョーダノヴァの説明は、「著者」「読者」といった広がりを持っていて、使える概念が多い。