新着雑誌から、インドの脚気研究の歴史を読む。文献はArnold, David, “British India and the ‘Beriberi Problem’, 1798-1942”, Medical History, 54(2010), 295-314. インドの帝国医学史研究の大御所だけあって、洞察満載の論文。
脚気の歴史というと、日本、オランダ領の東南アジア、フィリピンなどを舞台にして、20世紀医学の勝利の一つであるビタミン概念が発見される過程を描くのが定番である。実証的にもヒストリオグラフィの点でも水準が高い著作が多い。この論文は、視点を少し変えて、イギリスのインド統治と周辺国の関係、そして国際的な研究のトレンドの中に脚気を置いて、新しい洞察が得られている。
インド・セイロンの脚気がヨーロッパに認識されたのは18世紀である。ずっとマイナーな病気であると認識されていたが、日本やオランダの研究をうけて、19世紀の末からインドの各地で見られた流行性水種と同じ病気であるとされて、流行病として存在感を増した。(ちなみに、この同定は後から間違いだとわかった。)しかし、脚気は、コレラのような感染症とは違う姿を見せていた。ここには、精米の機械化が深く関わっている。ビルマやタイなどでとれた米を機械で精米して輸入することが一般化したため、インドでは精米が安価に入手できるようになった。そして、安価な精米を食べる人のなかで、近代的な職業に従事する労働者や、監獄や精神病院などの近代的な空間にいる収容者など、近代化に沿ったモザイクのような形で病気が観察されたので、インドのイギリス人医師たちが慣れているコレラなどとは明らかに現れるパターンが違っていた。(コレラと違って流行病ではないからあたりまえだけど。)
脚気の原因がビタミンB1の欠乏にあることが国際的な研究によって分かってからも、英領インドは、米の規制などに乗り出すことをためらっていた。その流れで、白米原因説をなかなか認めなかった日本の陸軍と東大と少し似ていた。その理由は、イギリスがインドに関して取っていた統治法にあり、生活への直接的な介入をためらうものであったからだと説明されている。
「脚気が広まったのは感染によるのでなく、似たような施設と労働力がその地域に複製されていって、その複製にともなって食餌パターンが共有されたからである」(303)
さすが大御所の鋭い洞察である。つまり、この施設と労働力を罹患させる脚気は、社会をモザイク状に侵食する「近代化」の等高線であったというのだろう。日本では話はだいぶ違うけど、これは、いまの仕事で、インスピレーションになるだろう。