必要があって、三宅鐄一の精神病学教科書をチェックする。文献は、三宅紘一『精神病学提要』第五版(東京:南江堂、1939)ついでに、第二版(1933)もチェックした。
三宅の精神医学の教科書は、まず人間の精神機能を知・情・意の三つにわけて、それぞれの機能の異常を記述することから始まる。それを第一部とすると、そのあとの第二部に、分裂病とか麻痺性痴呆とか神経衰弱とかの個別の病気の説明がくる。この精神機能を三つに大分類するというのは、当時の司法精神医学にとって重要な論点を提供していた。この三分類のそれぞれの機能が、それのみにおいて病気になるという説明の仕方は、一見すると精神病でないものについて、狂気のステレオタイプには合わないが、Xの機能のみが乱れている患者であるというロジックで精神病を言い立てることを可能にするからである。京都帝国大学の小南の言葉を借りると、「精神病患者にこんな利口なことができるわけがない」という反論を退けるための理論的な道具立てに使うことができる。「知」の部分は乱れていないから利口に見えるけれども、情と意が部分的に侵されているのが、ハンニバル・レクター博士というわけである。
三宅の教科書(第五版、1939)を読んでいて、「意思の病」を扱った部分が少し長いように感じたから、三宅の教科書の第二版(1933)と、三宅の前の東大教授の呉秀三の『精神病学集要』をチェックしてみたら、やはり、三宅の教科書では、呉の教科書よりも、意思の各機能が侵される精神病についての記述が長い。呉の第二版(1915)では、知・情・意はそれぞれ122, 23, 63頁だけれども、三宅は、第二版が 24, 11, 26頁、第五版が39, 11, 31頁である。内容については今回は触れないが、病的本能という概念を出して、本能(Trieb) とは、人間と動物に存する、教わることなく自然に発現する動作であり、自己生存に対し合目的的で、すこぶる複雑な行動をなすこともできる。運動、摂食、性欲、装飾、弄火、征服など、みな本能である。特に「弄火」というものを本能のひとつからあげていることからも分かるように、これらは、窃盗、殺人、徘徊、色情、そして放火など、古来「狂」と呼ばれてきた現象を、「本能」という仮構された意思の機能に落とし込んで理解するための仕掛けになっている。