ギリシア・ローマの性

同じく授業の予習で、古代の身体について。フーコーの関心を反映して、やはり「性」の章が素晴らしかったから、ここはきちんと教えよう。文献は、Skinner, Marilyn, “Sex”, in Daniel H. Garrison ed., A Cultural History of the Human Body in Antiquity (Oxford: Berg, 2010), 67-82.

基本的な分析視角は、フーコーがいう身体境界の権力性であり、ケネス・ドーヴァーの『ギリシアの少年愛』で用いられている概念である。成人の自由市民の男性を軸にして、彼がもつ二種類の性愛の対象を区別する。女性や奴隷という劣位にある存在と、自由人の少年という、将来は市民になって彼と平等な身分をもつ存在である。この二種類の存在に対して、成人自由人は違う性愛をする。前者は、その身体境界を侵して、その身体にペニスを侵入させる。これは性的な対象にすること、受動的な対象にすることであり、それは劣位を示すことであり、相手にスティグマを与えることである。一方で、自由な少年に対しては、市民になれるように少年の徳を培う義務があり、そこでは身体内部に侵入する性愛ではなく、股間性交が行われる。自由人である男性は優位であり能動的であるから、その優位が性愛の形態に翻訳されて、彼の身体境界は不可侵になるのである。自由人の男性は、他人の身体に侵入するだけであり、彼の身体は侵入されることがない。

男性が単独で優位であり、それがあらゆる場面に及んでいるというギリシアの強固な信念は、その法制度と生殖理論にも及んでいた。結婚は、男女の合一ではなくて、娘の父親と、その夫になる男性(父からみると義理の息子)の間の契約であった。アイスキュロスの『エウメニデス』では、子供の母親は、親と呼ばれているが、実は親ではない。それは、新たに蒔かれた胎を育てる乳母に他ならない、と述べている。この思想を、生殖の理論にまで高めたのがアリストテレスの理論である。

こういった、性についての充実した記述が、この3倍くらいある。この資料に、理論的な説明を加えると、一回分の授業になってしまって、それは少し多い。