文化上のシステムとしての常識

インスピレーションを求めて、クリフォード・ギアーツを読む。文献はGeertz, Clifford, “Common Sense as a Cultural System”, in Clifford Geertz, Local Knowledge: Further Essays in Interpretive Anthropology, 3rd ed. (New York: Basic Books, 2000), 73-93.

ヴィトゲンシュタインの『哲学探究』から、言語を都市に喩えた話を引いている。私たちが日常使う言語は、不正確で合理的に整理されていない、旧市街の街並みのように入り組んでいる一方で、そこから離れて郊外に出ると、学問が定義して厳密に意味を定めた言葉を使う整然とした街路が広がっている。この日常言語の世界と、学問言語の世界の間の関係を問うことは、「未開人は、科学的推論/法的な正義の概念/それを目的とした美の概念などの少なくとも原型を持っている」という形で、人類学の一つの主要なテーマであった。一方で、たとえて言えば日常言語と学問言語の中間に存在するような、「常識」といわれる枠組みが広がっている。この常識というのは、あたかも生活から自然に出てくるかのように言われているが、実際はすべての文化圏の生活から自然に出てくるわけではない。それにもかかわらず、「生活から自然に出てくる」という起源と根拠をまとうことが、「常識」が用いられるときの強みになっている。一つの思考の枠組みとして、思考の枠組みの一つの種類として、常識というのはほかのどの種類の施行枠組みよりも絶大な力を持っている。常識よりも教条的な宗教はないし、常識よりも野心的な科学はないし、常識よりも包括的な哲学はない。

常識は特有の色調 (tonality)を持っていて、それは「自然」であり「薄さ」をもち「厳密な方法の欠如」をもち「近づきやすさ」をもつ。この tonality という概念が面白い。そうか、tonality か。生活態度の医学化などの問題を考えるときには、こう考えればいいんだ。