昭和の衛生組合

昭和戦前期には、保健所が創設されるなど、地域の公衆衛生の再組織化が進んだ。そのときに、明治以来の組織である衛生組合を再活性化するアイデアも語られていた。大阪市の公衆衛生のエースであった藤原九十郎がそのようなことを考えている。文献は、藤原九十郎「衛生組合の事業に就いて」『公衆衛生』51(1933), no.2, 75-79.

衛生組合は、明治10年代以降のコレラの来襲にともなって形成された自治的な衛生組織である。大阪では明治21(1888)年の大阪府訓令による衛生組合準則によっておこり、組織・施設・実行の点で、全国に最たる模範であった。しかし、都市の進展とともに、市民にかかる衛生上の負担は加速度的に重くなり、特に大阪のような工業都市の場合には、この加重が著しい。であるから、それにともなって衛生組合も柔軟に変化し拡大する必要がある。

具体的には、まず清潔保持があげられる。衛生組合員は清潔保持委員であるといってもよい(76) 溝渠の浚渫、街路の清掃の仕事は、自治的に実行するべきである。し尿処理は、今は各戸が30銭から1円の処理費を払っているが、これを組合が一括して合理的に行うと低減する。河川の汚染の防止も、各戸の自制によって行われるもので、組合で協力・監視するといい。1932年6月に出た煤煙防止は、衛生組合の協力・申し合せのようなものが有効で、工場主、湯屋業者などが空気清浄委員をするとよい。衛生教化の仕組みも、欧米のヘルスセンターのようなものがあるとよい。さらに、医療組合の機能も持たせ、簡易な実費診療や救療診療が、衛生組合を通じて行われてもよい。

衛生組合という、伝染病予防法以前から地域の自治的な衛生の主体として構築されてきた組織が、工業化に伴って発生する新しい問題や、都市の医療の問題にも対応できるようにしようという構想である。いわゆる公害や医療組合などにも、伝統的な組織が対応できるはずであるという思想である。