Scull, Andrew, Hysteria: the Disturbing History (Oxford: Oxford University Press, 2009).
アンドリュー・スカルの「ヒステリーの伝記」を読む。ちょっとみると、注や史実も少なく、シンプルなつくりの本に見えるけれども、もともと一般向けの本でもあるし、また、気をつけて読むと、さすが大家だけあって、随所に明晰な洞察がある。
たとえば、次の議論の流れは、ヒステリーという疾病概念の複雑さを、とても的確に捉えているように思う。
ヒステリーに対しては、無数の薬が処方され、転地療法が勧められた。転地療法の中では、特に水浴や鉱泉などが中心であった。しかし、患者は、めったによくならず、医者に対する不満を募らせていた。一方で、医者たちも、いつまでも改善せず、永遠に invalid の役割を続けていようとするかに見える患者に苛立ちを募らせていた。
この、双方からのフラストレーションと怒りは、病気の性格の基本的な部分の理解にまで影響を及ぼした。症状は、神経であれ生殖器であれ、現実の身体の変化によって起こされた「真実の」ものなのだろうか。それとも、詐病であり、まやかしであり、状況を操作するためのまやかしなのだろうか。この二つの考えの間で、医者たちは揺れ動いていたが、後者の解釈をした場合には、怒りとフラストレーションを背景に持つ、サディズムの性格を帯びてきた。心理的には、ロバート・ブランデル=カーターの、患者の痛みや苦しみの訴えにいっさい耳を傾けず、患者の詐病を追い詰める冷酷な態度が有名である。身体的には、これは更年期のエロティックな症状についてだが、肛門や膣内に氷を入れたり、瀉血のためという名目で、陰唇にヒルを吸いつかせてそこから血を採る方法がとられた。
もちろん、この構造を、医学における科学と時代的・ジェンダー的偏見の対立として描くことも可能だし、あるいはヒステリー患者をプロトフェミニストとして描くことも可能である。けれども、大切なことは、それが、病気とその治療・治療のための理解という行為を媒介にしていたという視点である。 その行為の中で、あるスペクトラムをもった、病気に対する理解と治療が表れてくるという発想であるといってもよい。