フーフェランドなどはヒステリーは女のみであると言っていたが、現代では、ヒステリーは男にも起きるし、兵士や筋骨隆々たる男性労働者にも起きるものであると知られている。148-9
私は元来、素人の方に病の徴候をあまり詳しくお話しすることを好みません。あまり病気の症状を細かく通俗雑誌、ころに婦人雑誌などに書くと、時には、その読者、ことに気の弱い婦人は、そのため徒らに無益の心配をなし、不安の念を醸すことが多いからです。ことに、神経質な婦人などであるとこれを読んで、自分にもそういう症状があるから、何病ではないか、或は「ヒステリー」ではないかと心配し、それが甚だ気になり、終には甚だしき不安を感じ苦労の種となる場合が頗る多いものであります。殊にその書き方が、親切のためか、又は、自己の博識を誇るためか、普通の医書にもない程度の詳細さにおいて記述し、そしてその書き方が、気の弱い人を如何にもおどすように、又、心配せしむるように書く人がある。150-151
152 ヒステリーは感情の病気、あるいは表情の病気であって、人が悲しいと思わないことを悲しいと思い、人がきたないと思わないことをきたないと感じて、はげしく興奮し、それが身体症状となる。
154 同病で病勢が盛んとなると、平素は隠れおる不良な性格が露骨になるための病状とすべき症状があらわれてくる。一般に、病気になると、平素の嗜みがなくなって、本能的となるのは多い現象です。
158-9 妙齢の婦人においては、感動の変化がはげしく、センチメンタルであるから、ヒステリーを起こしやすい。また、内分泌の関係から、年が進み、4、50歳となって月経の閉じる頃になれば、再びその体にも変化が来るものである。そのため、その頃にも、また、此の病に侵されやすいと言われる。
163- ヒステリーは悧巧なもの、文化の進んだ人にのみくる病気なのか、野蛮人にはない病気なのか。そのように考える人もいるが、いずれも間違った考えである。実際、この病気は昔からあったもので、古い歴史にある奇跡は、大概、これに属したものである。いざりが祈祷で治り、めくらが神仏の力で治り、眼が信仰で開き、見えるようになったなどという例は、多く、この類のものである。お経の文句のありがたさで狂人が静まったなども、多くはこの病気。 欧州もおなじことである。尼寺や、女学校の寄宿舎内などにも、甚だ多数の少女が同時にこの「ヒステリー」に罹り、伝染病のごとく、この変態状態が急に現れたごとき感を呈したものもある。また、未開地の人民には、その土地の風土病として、この病に似たものが往々あります。 しからば、ヒステリーは、決して近年になって現れた文明病ではないのであります。むしろ、近年になり、かえって西欧州では減ったとさえ言われているものです。従って、本病は、決して文化の進んだために生じた病ではなく、また、知識の進んだ人の間にのみ起こる病気でもないのです。 163-4
182 己のことのみ考え、人のことを考えぬため、わずかのことから不平を感じ、我慢が出来ぬようになりやすい人は、「ヒステリー」となることが少なくないのであります。世間には夫の不品行であるため、妻が「ヒステリー」になったということをよく言いますが、その実、夫をして何故に不品行ならしめたかというと、妻が「ヒステリー」であって、家庭的に夫の慰安がないため、夫が、自然、他に遊びに出るようになった例も少なくないのです。心から貞淑な妻女には「ヒステリー」は起らぬものです。要するに、我があってはいけませぬ。
183 姑や、他人の多い家では、それらの人の陰口などをきいても、なるべく、これに捕われぬように心がけ、練習し、修養することが必要です。何にしても、すなほであること。つらいとか、憎らしいとか、ねたましいとか、ああして欲しいとか、こうして貰いたいとか、自分はこれほど努めているのに報いがないとか、いうような考えは起こしてはいけぬ。起こさぬように努め、馴らしましょう。すべてこれらの自己本能はすべて自我中心となり、「ヒステリー」の源となるものであります。「嫁しては夫に従ひ、老いては子に従う」という昔の人の教えは、特に婦人の「ヒステリー予防のために書かれたものではないかと / も考えられる点があります。西洋人にはこの教えがないのと、「ヒステリー」の多いのとは、多少関係がないのでもありますまい。人に従うことは、人を御することでありと考え、また、それによって、真に精神上の快味を味わうことができるような、広い心となすことを念ずることが、一般の人、ことに婦人には甚だ必要な点でああります。
188 「不潔な所のお掃除は我を去るによいと言われます」